2.キーワードで考える日本政党史

第3極(②③⑦)~第3極の諸勢力~

当時、第3極としては、長州閥山県系、薩摩閥系、実業派、他の中立派、新民党があった。このうち新民党は、キャスティングボートを握れなくとも、民党間の連結器として、一定の存在意義を持ち得た。長州閥山県系も、政権を目指すことを最優先とする、「党利党略で動く」2大政党と一線を画す超然主義、または国家主義の擁護者として存在する場合には、一定の存在意義を持ち得た。問題は親薩摩閥と、実業派を含む中立派であった。親薩摩閥は、薩摩閥の影響力低下によって、苦境に立たされた。薩摩閥の足元の鹿児島県内選出議員は、弱者連合が薩摩閥と改進党系(進歩党)の対立によって瓦解した後、民党の合流(憲政党の結成)に参加し、それが失敗すると憲政本党(進歩党系等の旧憲政党残留派)を脱して、結局は伊藤系と自由党系の合流(立憲政友会)に参加した。つまり、ただ自らの展望を開くために動いたのである。独自の存在意義があったわけではなかったから、それも仕方がないと言えば、仕方がない。次に中立についてである。改進党系の憲政本党は、野党的な路線を採って自由党系に挑戦することがあった。しかし同党には同時に、自由党系のような縦断を志向する者もいた。改進党系が野党的な路線を採った場合、それは政権参加から遠ざかることを意味し、それゆえ、可能であれば自由党系を野党化させ、共闘して薩長閥(政府)を倒そうという考えが、排除されないこととなる。したがって2大政党の差異は、思うほど明確にはされにくい。改進党系が、自由党系と同様に、ただし別ルートで縦断を策す場合であっても、薩長閥内に政策の大きな差異があって、それと連動するというのでない限り、自由党系との差異は現れにくかった。このため、中立の会派は、存在感や存在意義のあるものとはなりにくかった。薩長閥と民党の間の中立という立場も当然、縦断的な動きがなくならなければ、採りにくいものであった。政策的にも、地価修正と地租増徴が実現したことで、中立派の共通項となり得るような大きな課題が乏しくなった(地価修正、地租増徴も完全な共通項ではなかったが、個々の無所属議員の、政綱のない集まりであった中立派の性格を考えれば、そのような面は十分にあったと言って良い)。