2.キーワードで考える日本政党史

新与党の分裂(②③)~優位勢力に対抗するための合流~

憲政党が分裂したのは、その結成が、優位勢力であった薩長閥への対抗のための、政策的な背景にも乏しい、無理な合流によるものであったからだ。ここにはすでに、政権交代が起こりにくい日本における、政治体制を超えた野党の弱点が示されている。政権交代が起こりにくい風潮の中、野党が政権を狙う場合には、無理に勢力を拡大しなければならなくなる。その手段は、政策等が異なる勢力との合流以外にない。万人受けする政策を無責任に掲げるということも考えられるが、他の勢力と合流するほどには、票は増えないと言える。もっとも、在野の複数の政党などが合流しても、それが優位勢力の離党者を含むものでない限り、パワーバランスが変わらない場合が多い(議院内閣制ではなかった戦前の、非政党内閣期には、2大民党が合流し、民選の衆議院において圧倒的であることを誇示することに、メリットがある場合もあった)。差異のある勢力同士が合流してできた大政党は、意見集約に苦労し、分裂する。憲政党以外の例は、以下の通りである。それでも大日本帝国憲法下の「優位」は、衆議院における優位に過ぎないから、非優位政党にとっては、あまりに厳しい環境であった。確かに、優位政党であった立憲政友会、自由民主党にも分裂は見られる。しかし立憲政友会のそれは、政権(側)にあった時には皆無であった。ほぼずっと与党であった自民党の場合も、与党であった1993年6月を除き、ごく小規模の分裂しか起きていない。この2党は、非優位の対抗勢力に比べ、旧党派間の対抗意識に悩まされることは少なかった(自由民主党の派閥争いは、旧党派の対立の延長線上にはあったが、同党の派閥は旧党派の垣根を超える再編を経ており、旧党派に基づく対立というよりも、党の要人間の勢力争いという面の方が強かった)。そしてどうであれ、優位勢力として権力の側にある限り、要人間、派閥間の対抗意識が、党の求心力を上回ることは稀であった。例外はやはり、1993年6月の自由民主党の分裂くらいである。

自由党に対する進歩党:進歩党は立憲改進党、立憲革新党の多く、大手倶楽部の一部、帝国財政革新会が合流したものであり、立憲革新党系は立憲改進党系に対抗意識を持ち、また、薩長閥に対して、より強硬的であるという傾向を持っていた。帝国財政革新会系も、進歩党が事実上の与党であった第2次松方内閣期に、田口卯吉らが離党し、同時期の他の進歩党離党者と、会派(同志会)を結成した。

薩長閥に対する憲政党:薩長閥に対抗するために自由党と進歩党が合流して憲政党を結成、政権を得たものの、議会を経験することもなく分裂した。

立憲政友会に対する立憲同志会:立憲同志会は立憲国民党の改革派、中央倶楽部等の桂系が合流したものであったが、民党系と、桂系などの官僚出身者との対立が見られた。これは同党の系譜に小規模とはいえ、何度か要人の中から離党者が出る要因となった。

立憲政友会に対する立憲民政党:立憲民政党は、憲政会と政友本党が合流したものであったが、合流の前後に、憲政本党系から、合流反対者、党に不満を持つ議員など、多くの離党者が出た。立憲民政党が結成された当時、第1党は憲政会であったが、立憲政友会と政友本党が再統一されれば、優位政党に戻ることが確実であったことなどから、憲政会はなお、自らが非優位政党であると捉えていた(第15章参で見る)。上の分裂は野党時代であったが、与党時代に、立憲同志会の結成に参加した国民協会の要人が、自らの一派を率いて離党、国民同盟を結成した。

自由民主党に対する日本社会党:1955年に結成(再統一)された日本社会党は、左右両派の社会党が合流したものである。その結成は自由民主党より先だが、合流が確実となった、保守勢力に対抗するために結成されたと言える。左派と右派の対立が激しかった日本社会党は、結成から約5年で右派の一部が離党して民主社会党を結成、その後の長い党内対立を経て、与党であった第1次橋本内閣期に右派が中心となって離党し、民主党を結成した。

自由民主党に対する新進党:新進党は、新生党、公明党の多く、日本新党、民社党等が合流したものであったが、離党者が続出する中で、解党に至った。解党の後は、旧党派を軸とした多くの新党が結成された(ただし、旧党派の多くが小沢寄りと反小沢派に分化しており、完全に旧党派に分かれたわけではない)。

自由民主党に対する民主党:民主党は、結成時は社会党の右派と、左派の一部、新党さきがけの多くが合流した第3党であったが、後に解党した新進党の多くが、自民党に対抗するために合流して来た。左派系(結成当初の参加者の多くなど)と保守系(新進党出身者など)の距離が埋まらず、左派となった小沢一郎系(自由党系)が離党、さらに、右派(国民民主党)と左派(立憲民主党)に分かれるような分裂をした。

片山内閣、細川内閣にも、保守政党の劣位にあった無産政党系(社会―民主―主義系)が、機会を得て、自らと異質な保守政党と組んで政権に就くという例であり、特に自民党が存在していた後者には、優位政党に対抗するための合流と類似する面があった(第1党となったのは前者の場合だけで、その時も無産政党の合計は、保守政党の合計を大きく下回っていた)。上に挙げた例には、合流から分裂まで、むしろ長持ちしたと言えるケースもあるが、その間も、党内がまとまっていたわけではない(立憲同志会→憲政会→立憲民政党はましな方であるが、それについては第12~20章で見る)。このうち、政権担当時の分裂だと全く言えないのは、終始野党であった新進党の例である。党内対立が内閣の崩壊に直結したのが、憲政党と民主党の例である。また、非自由・非共産の片山内閣、非自民・非共産の細川内閣は、それぞれ与党内、与党間・与党(社会党)内の対立によって崩壊した(細川内閣総辞職の理由は別に挙げられたが、同内閣が非常に動揺していたのは確かであり、同じ政党によって形成されようとした次の内閣が成立する際、連立は事実上崩壊した。与党第1党の社会党内は、連立内閣の方針を支持する右派と、反対の左派に割れていた)。民主党中心の内閣についても、民主党の動揺と分裂が印象的だが、与党第2党社民党の連立離脱で衆議院の3分の2を割った(その後まもなく参院選で過半数を割ったから、与党だけではどうやっても法案が通らなくなった。社民党の人気政治家辻本清美は、同党を離党して民主党入りした)。さらに、与党第3党国民新党の党首の連立離脱で、同党が分裂した。1議席の政党を除けば連立の全政党が激しく動揺していたのである。

以上から、優位政党に対抗して複数の勢力が合流した新政党、優位政党に対抗して形成された連立政権は、内部対立に悩まされ、分裂することが多いと言える。分裂した「新与党」は信用を失い、政権交代の可能性の低い1党優位制への回帰を許している(長期的に見れば、1党優位制が維持されたということになる)。