2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(⑩⑬、補足~吏党刷新、帝国党への道~)~帝国党結成~

この吏党刷新の動きは、2大民党の合流による憲政党の結成と、伊藤系や自由党系の合流による、立憲政友会結成との、狭間にある。言い換えれば、初めての民党内閣と、初めての政界縦断型新党による、初めての内閣の成立との狭間にある。同時期に、その憲政党の分裂、吏党系、実業派、地価修正派を合流させようとした伊藤新党構想の挫折がある。刷新失敗の要因はやはり、薩長閥のバックアップの不足と不統一にあったと言える。中立実業派を引き込む構想が、立憲政友会に参加、加盟した議員の離脱もあって、結局吏党系の、山県系としての純化にたどり着いたのであり、幅を広げるという点では、思惑と逆の結果になった。中立実業派との合流は、結果的にであれ、吏党系を、大会派であった当時の姿に戻そうとする動きであった。しかし吏党系は政党となっており、かつての中立会派としての性格を失っていた。時期にもよるが、その傾向はむしろ、中立実業派に受け継がれたいたと言える。そう考えると、吏党系や、それに近いものを中心とするのでは、構想が成功するはずがなかった。可能性としてあったのは、中立実業派が吏党系を吸収し、中立を建前としつつも、実際には薩長閥の産業育成などに期待するというものであったはずだ(それと相容れない議員は離れても、まだ薩長閥寄りの無所属の当選者もいたのだから、少なくとも一定の穴埋めは可能であったと考えられる)。平たく言ってしまえば、中立実業派と吏党系の間を採るということだ。吏党系と中立実業派との再統合は、伊藤の、2大民党に対抗する政府党結成の構想としても試みられていたことであったが、再度失敗したことになる。伊藤の構想の場合は、地租増徴に賛成し得る者達を集めるという面が大きかったわけだが、このように重要政策で一致し得る議員達でも、背景の違いによって合流は困難であることが、すでに示されており(吏党系との合流に否定的な実業家が少なくなかったと考えられる)、吏党系の拡大は元々無理な話であった。実業派の多くが最も回避したかったことは、地租増徴案の不成立よりも、いずれかの勢力に寄り過ぎることであったと考えられる。それでも拡大への動きがあったことは、不振に悩む薩長閥側の、あがきのようなものであったと言えよう。

国民協会は自らを曖昧な勢力だと自認していた(例えば1896年12月8日付の萬朝報に、「旗幟の文明ならざるが我が恊會の本領なりと會頭自らさへ誓言せる國民恊會」とある)。しかし帝国党となる過程、帝国党結成後の分裂によって、準与党として薩長閥を支えようとする、山県の考えに近い勢力と、政党の改良を前提として、自党の内閣成立を目指す、伊藤に近い(近くなった)勢力に分かれた。これは、衆議院に潜在的にあった、4極構造を明確にする点でも、重要な過程であった。4極構造とは、薩長閥の超然主義に含まれる面も、その変形という面もある、山県系の鼎立構想に準ずる吏党系、その左に薩長閥に接近する自由党系、その左に改進党系、その左に薩長閥への接近に最も否定的な新民党が位置するものである。

吏党系は後に中立実業派との合流を果たし、大同倶楽部→中央倶楽部となる(第9~10章で見る)。これは4極構造をより明確にする動きであったと言えるが、その大同倶楽部からも、多くの離脱者が出た。しかし離脱者のうち、帝国党出身者は、武市庫太だけであった。武市は立憲政友会の結成に反発して自由党系から帝国党に移ったのであり、生粋の吏党系ではなかった武市庫太だけであった(1900年8月29日付の読売新聞によれば、武市は立憲政友会の宣言綱領を、それまでの自由党系の主張と相反するものだと捉えていた)。国民協会が離党者を続出させ、内部の不統一も露呈させていたことを思い出す時、また、帝国党が中立実業派等との合流による大同倶楽部、さらなる中立実業派との合流に寄る中央倶楽部の結成を実現させ、その中で彼らが多数派ではなかったにもかかわらず、中心的な勢力となったことを思い出す時、帝国党の結果としての純化には、プラスの面も確実にあったのだといえる(純化の段階で早めに脱落者が出たのだと言うこともできるが、それでもその後まとまっていられたのだから、その点ではプラスだ)。国民協会には複数の派閥があったという(註3)が、帝国党にはそれも確認できない。国民協会の内部対立については度々報じられたが、帝国党については、そのような報道が少なく、筆者が確認したものは、1899年8月2日付の読売新聞が最後である(1906年1月4日付の同紙に、大同倶楽部を結成する際の、帝国党の解党に対する院外者の反対は報じられている)。そこでは、四宮一派など、吏党系が拡大を策して参加させた(記事は四宮一派が金で買われたとしている)勢力が原因となった内訌が報じられている。四宮一派とは、憲政本党を脱して帝国党の結成に参加した千葉県内選出の3名を指している。彼らが憲政本党を離党したのは、当時の千葉県知事が自由党系に近い阿部浩(官僚だが、中央交渉部、国民協会、実業団体―第4回総選挙後―所属の衆議院議員も経験)であり、その更迭を、当時の首相であり、薩長閥の要人であった山県有朋と近い吏党系との合流によって、実現させようとしたためであった(註4)。自由党系に対抗して千葉県で吏党系と共闘しようとしていた憲政本党も、四宮達の離党について理解があったようである(註5)。しかし吏党系には阿部を辞職させることが難しく(註6)、四宮は、憲政本党の主張した地租、醤油税、郵便税の復旧に同調して1899年12月8日に離党し(12月13日付読売新聞。除名は脱党届の提出を受けたものであった)、1901年12月3日に憲政本党に復党した。憲政本党から帝国党に移った千葉県の3名の、他の1人であった大須賀庸之助は、1900年9月5日に離党し、立憲政友会の結成に参加した。外部から参加した者達の一部を含む議員が、立憲政友会結成の前後に離党し、以後、内部の不統一は見られなくなったということである。

1899年7月24日付の読売新聞は、帝国党が憲政党と合併し伊藤を戴こうとしているという風説に対し、党員が次のように話したとしている。

我等ハ元來日本にハ到底大政黨の永久持續し得べきものにあらざること歐州の例に照して察知する故何處までも小黨主義を抱て多數専制の弊を抑制するに勗むべき方針ばれバ假令時としてハ他の政黨と進退を同ふすることもあるも單に聯合に止め置く覺悟にして此際憲政黨と合同する如ハ斷じてあることなし

それでも帝国党から立憲政友会に移った議員は少なくなかったのだから、自由党系との合流の是非は、大岡らが離れてからも多少なりとも争点として残ったのだといえる。伊藤系につくという点も含め、立憲政友会となる新党への参加の是非は、国民協会→帝国党の内部を貫く、最後の深い溝であったのだ。

政党が明確に純化した例を挙げると、解党した新進党の一部が結成した自由党がある(1997年1月結成)。新進党党首の小沢一郎が、党内の不統一(旧党派の派閥化、参議院の旧公明党の離脱問題、そして、独裁的な面があり、自民党との連立を志向する小沢党首への反発)が強まると、同党を解党して、自身に従う議員達と自由党を結成した例である。自由党は自民党と連立を組んだものの、結局それを離脱し、真っ二つに分裂した。純化したのに分裂したというのは一見不思議だが、小沢に従った議員達には、小沢の自民党との連携、いわゆる「保・保連合」路線に賛同した者が少なくなかった。それで、この路線を手放した小沢に従わなかったのである(小沢の連立離脱を巡る駆け引きそのものへの不満もあった)。純化しても、純化した当時の路線を変える場合、特に自ら野党となるなど、困難が伴う路線変更を行う場合には、再度分裂することがあるのだ。後に吏党系(帝国党)が大同倶楽部へと、ついに拡大を実現させるが、その場合は、吏党系(帝国党→大同倶楽部)は山県-桂系であるという点ではぶれていなかった。しかし所属議員の中には、山県寄りというよりも、単に時の政府に寄っていたつもりの議員がいたのだろう。第1次西園寺政友会内閣の準与党から事実上の野党になった時、彼らは大同倶楽部を去ったのだ(第9章参照)。大同倶楽部の吏党系としての路線を維持していたのが、その路線を以前から歩み、同派の中心的な存在であった、帝国党系(生粋の吏党系)であったということだ。

註1:1898年10月30日付品川弥二郎宛大岡書簡に次のようにあり(『品川弥二郎関係文書』二209頁)、大岡が、国民協会からの入閣を志向する人物であったことが分かる。

故に此儘にして内閣を組織し議会に臨むならば、自由党、薩派と国民協会を合して、此三団体を使用せさるべからず。然らは大将の流義に多少の修正を加へ、此三派より人物を精選し、大臣、次官、局長等を採用するの覚悟相成度候

註2:村瀬信一氏は、「帝国党ノート」59頁において、1898年の伊藤の清国・朝鮮漫遊に大岡が同行したことについて、「両者の関係は、単に同郷の元勲と取材記者という枠を越えたものと解釈可能の様に思われる。」としている。

註3:1896年10月13日付東京朝日新聞。大岡育三らの長州派、九州の佐々友房の一派、関東東北派とも呼ぶべき新井毫らの少数派、実業派もしくは日和を窺う、愛知県内選出の今井磯一郎、早川龍介、江崎均、伊藤春太郎、岐阜県内選出の大野亀三郎らとしている。江崎と伊藤は自由党から移って来た議員である。

註4:阿部と自由党の関係、憲政本党の反発については1898年9月26日、1899年7月23日付の読売新聞。後者は斎藤修一郎が働きかけていたことを報じており、憲政本党の安田(勲-立憲改進党出身-だと思われる)らが阿部知事、自由党に対抗するために帝国党と組むことも選択肢に入れており、秋山源兵衛らが安田を排斥しようとしていると報じている。1899年7月24日付の同紙は、四宮が阿部知事の更迭を憲政本党離党から帝国党に移る条件としていることを伝えている。

註5:1899年8月7日付読売新聞は、千葉県の憲政本党員が四宮に対して「サマデの惡感情を抱くこと無く寧ろ同情を表しつつありと云ふ」としている。1899年8月10日付の同紙は、幹事の平山晋が、千葉県憲政本党支部評議員会で四宮の移動を県の政治の刷新のためだとし、秋の地方選挙では帝国党と連携して自由党に当たると報告したこと、その後の懇親会に離党者も列席したことを報じている。地方選挙は、県会議員選挙のことである。

註6:読売新聞の記事を挙げる。まずは、四宮らが帝国党に移る前である。1899年7月30日付は、帝国党が四宮らに支払うと約束した金額を払えず、四宮らも千葉県の憲政本党全部を帝国党入りさせることが出来ないため、双方が押し問答となったことを報じている。四宮らが帝国党に移った後、1899年8月29日付は、同党が四宮らに約束した金額が支払われていないこと、帝国党の佐々友房が山県有朋に知事更迭の豫諾を得たこと、後任が柏田盛文茨城県知事となるであろうというが、四宮らの離党を防ぐためのでたらめらしということを伝えている。そして実際、阿部浩は1903年の2月まで、千葉県知事であり続けた。