2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係(③④⑦⑧)~自由党系星亨の路線~

自由党系は進歩党系との関係を断ち、政権を手にした長州閥山県系に接近、1列の関係を再現させた。薩長閥と民党の対立感情は、民党が、薩長閥に希望のポストを与えられなかった場合にのみ、民党間の対立感情よりも強くなるようになったようだ。民党が薩長閥に接近した場合、それは本来の理念とは矛盾するため、党内にはそれに反対する勢力が現れる。彼らを抑える方法としては、資金提供、選挙区への利益誘導、ポストの提供が考えられるが、党自体が有利な待遇を受けるのだと示すことも、自分達が薩長の軍門に下るのではないことを示す意味でも、有効であった。そのため、そして連携を主導する党の実力者が、自らの力を党内に示すため、以前の条件より後退しないよう、民党はより多くのポストを薩長閥に要求するようになった。当然、民党と薩長閥の妥協は難しくなった。これは、1列の関係において改進党系の優位に立つ自由党系にとっても、頭が痛い問題であったのではないだろうか。伊藤博文を党首に迎えることは、条件の問題をリセットし、総理大臣を出す政党の多数派になれる、良い解決策であった。自由党は議院内閣制の実現よりも、自党の内閣、あるいはただ、改進党系に対する優位を求めていただけであったと言える。そうでなければ、第2次山県内閣よりも第1次大隈内閣に好感を持って、これを支えたはずだからである。憲政党を分裂させた首班であった星亨は、大同団結運動が展開された当時、保安条例によって東京から追放され、さらに出版条例違反で軽禁固刑が科せられたために不在であり、2大民党が合流した当時も駐米公使であり、不在であった。つまり、自らの関わらなかった2大民党系の連携の動きを、自らが関わり得る動きに変えることで、主導権を握ることを優先したと考えられる。同時に、星は2大政党制論者であったから、衆議院に基盤のない薩長閥と、衆議院の圧倒的優位政党である合流民党の対決では、2大政党制が実現しないと考えていた可能性がある。衆議院、貴族院、枢密院、軍部(特に軍部大臣の現役武官制が採られている期間)など、拒否権を持つ機関がいくつもあった日本の政治制度においては、各機関(に影響力を持つ実力者)の協力が必要であった。衆議院に多くの議席を持つ民党と、他の機関を抑えている薩長閥による政界縦断は、それを担保する手段であり、不可欠であったと言っても過言ではない。つまり縦断の要素がない憲政党内閣は、早晩行き詰まるはずであった(もちろん、民党が薩長閥の一部と組んでも、それだけで簡単に貴族院、枢密院、軍部を抑えられるというわけではない)。民党にとっては、政界縦断的再編による新政党への参加と、そこで主導権を握ることで政権を担う勢力へと成長し、政権の性質を、官民連立政権から政党内閣に変化させるのが、本当は制度上必要なことであった。2大政党制への移行を望むとしても、その移行は、政党内閣がかなり定着した後にならざるを得なかった。つまり、当時の状況では難しいことであった。また、2大民党が共に政界縦断的再編を目指して競合すれば、互いの対抗意識を薩長閥に利用されて、不利な待遇に甘んじることになるという危険があった。薩長閥内部にも亀裂はあったが、政権にあった分だけ、民党より有利であった。憲政本党は、憲政党の地租増徴反対派の造反に期待するしかなかった。これは議席数では当時憲政党を上回っていた同党の、非優位性を示している。実際に期待は外れた。一方の憲政党は、第2次山県内閣と対立しない限り、衆議院の解散は行われず、地租増徴も、米価が高い中で、しかも5年限りであったことから、あまり不利にはならないという計算をしていた(地租が元の2.5%に下がれば、地価修正で地価が下がった分だけ、地租はむしろ、引き上げ前より事実上安くなる)。