2.キーワードで考える日本政党史

(準)与党の不振(④⑥⑩⑬)~伊藤系にまた苦しむ吏党系~

第13回帝国議会開会当時、第2次山県内閣を支持したのは憲政党と国民協会であり、それに無所属の28名(第13回帝国議会開院式当日)全員を合わせても、衆議院の過半数151を上回ること、わずか8議席という状況であった。無所属の全員が内閣支持であったとは考えにくいことから、同内閣の衆議院における基盤は脆弱であったといえる。薩長閥が第3極を分割した弊害が形となって表れたのだといえる(『補論』⑱~㉔―主に―参照。第2回総選挙後から、第5回総選挙前までに吏党系が、山県系となった吏党系、伊藤寄りの傾向を見せた実業派、民党の離党者も吸収した親薩摩閥に分化していった)。実業団体(第4回総選挙後、第2次伊藤内閣期)、実業同志倶楽部(第2次松方内閣期)は少なくとも当初は、時の内閣を支持していたのだから、それまでは吏党系(国民協会)以外にもう1つ、吏党系に近い勢力があるようなものであった。いや、その国民協会は、伊藤系中心の第2次伊藤内閣、薩摩閥中心の第2次松方内閣の野党であったから、その時には「吏党系ではない吏党系」であった。この、ねじれたような状況こそが、薩長閥の不統一と第3極分割の結果であった。第3極の細分化がある程度改善された第5回総選挙後の山下倶楽部(『補論』㉓参照)は、中立色のより強い会派として現れ、結局は地租増徴に反対した。その山下倶楽部の後継という面もある同志倶楽部(第6回総選挙後)は、野党寄りであった。中立的な会派ではあったが、第2次山県内閣が超然内閣として成立すると、これに批判的になったのである(1898年11月7日付萬朝報)。

山県系でありながら、自由党系とも連携しようとした国民協会系は、長州閥(の山県系)と自由党系との連結器となり得る存在ではあった。同党の大岡は、山県内閣の成立によって、これを支持する自由党系の憲政党、帝国党、親薩摩閥の勢力から閣僚、次官、局長等を採ることを提言していた(村瀬信一「帝国党ノート」55頁)。しかし実際は、第2次山県内閣が成立しても、同党の領袖の1人であった和田彦次郎が、農商務省農務局長に就くに留まった(村瀬信一「帝国党ノート」56頁)。そして文官任用令の改正は、国民協会にとっても、猟官を困難とするものであった。大岡は国民協会にありながら、その準与党止まりの宿命に満足せず、政党から閣僚を採ることに山県のように否定的でない、伊藤と近くなったと考えられる(伊藤と近かったことについては村瀬信一「帝国党ノート」59頁)。しかし、政党に否定的な山県と、政権獲得を目指す憲政党(自由党系)の対峙は避けられず、姿勢を明確化させることに消極的であった国民協会ではとても、双方を結びつけることは出来なかった。また、国民協会と憲政党(めずらしく第2党であった自由党系)は双方ともが、特に当時は自らの勢力の拡大を必要としていたから、実態の伴う合流にまで至るのでない限り、衝突する危険性が高かった。帝国党が望んだのは、あくまでも薩長閥と憲政党(自由党系)の協力であり、その合流ではなかった。山県系が加わる合流であれば、話は別であっただろう。しかし、それはそもそも考えにくいことであったし、ほとんど伊藤系のみが、多くの党員がいる憲政党と合流するとなると、政党内閣誕生への大きな一歩となると同時に、党内で自由党系が有利になる、つまり生粋の自由党系が中心の内閣の誕生に近づくことになりかねなかった。山県は政権を目指す政党を認めなかったし、自由党系を警戒していたから、立憲政友会総裁(伊藤)の権限が非常に強かったからといって、安心できるものでなかった。そのような状況下、帝国党が、伊藤新党に参加し得ないどころか、対決することになる可能性が高まった。伊藤寄りの議員など、そのことを受け入れられない者達が、帝国党結成不参加も含めて、党を離れたというわけである。そのような者達のうち、山口県内選出の議員達は、伊藤と同郷であったことから(山県と同郷でもあるのだが)、少数派として立憲政友会に参加しても、活路が開かれることを期待し得た。彼らは実際に伊藤に、帝国党不参加を働きかけられている。そうでない佐々友房は、帝国党の結成と躍進に賭けるしかなかった(村瀬信一「帝国党ノート」60頁)。