2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き(⑦)~日吉倶楽部と地租~

第13回帝国議会では、国民協会だけではなく、憲政党(自由党系)が第2次山県内閣を支持していたため、地租増徴案の衆議院通過が、以前よりも現実味を増していた。問題は、中立会派の日吉倶楽部、そして憲政党内において反対を貫こうとする議員達であった。第2次山県内閣と憲政党は、彼らや憲政本党内の地価修正派を切り崩そうと動いていたが、結果が読めない状況であった。その時、山下倶楽部の流れを汲む日吉倶楽部が動いた。1899年2月18日付の萬朝報によれば、日吉倶楽部の田口卯吉らは、同派6名を含む姿勢の曖昧な議員達と会談し、政府が600万円の歳出削減を行うならば、増税を5年限りとし、その幅を0.8%とすることで同意することとした。田口らは、増税圧縮の補填以外について、憲政党の妥協案に同意したのであったと考えられる。1週間ほど前(12月12日)、憲政党が代議士総会において、地租を5年限り0.8%増とし、不足分を市街宅地租、葉煙草専売の収入で補うことを議決しているからだ(憲政党党報第2号109頁)。12月20日付の読売新聞によれば、日吉倶楽部が、軍事費の内から600万円削減をすることと、歳出を議した後でなければ歳入を議さない事に決め、田口と鈴木総兵衛が山県首相を訪ねた。そして山県の不在を受けて松方蔵相と会い、600万円の歳入不足をいかに補てんするのかを質問し、市街託地租、煙草専売の収入による外にないという答えを得ると、地租によって財政を強固にするという主張に背くものであるとし、歳出の削減を得策として、過大な軍事費を600万円節約するのでなければ、政府の財政計画に賛成できないとした。この後、伊藤系で憲政党に入党した末松謙澄が、日吉倶楽部を訪ねて、憲政党の意見に賛成するように頼んでいるのだ。そして日吉倶楽部の多数は、5年限り3.3%の地租増徴に賛成であったらしい(1898年12月20日付読売新聞)。しかし、第2次山県内閣と憲政党は3.3%で合意したものの、積極財政志向の憲政党が、田畑の増税幅を抑えたことの埋め合わせとして、市街宅地租を5.5%増(8%となる)とすることを主張した。これに対し日吉倶楽部は、市街宅地租の増税幅を2.5%(5%となる)に留めること、歳出節約に関する同派の提議に賛成することを条件に、地租増徴に賛成するとし、憲政党と国民協会は前者を受け入れ、後者についても、「成るべく同意すべし」とした(『鼎軒田口先生傳』165頁)。こうして、市街宅地租の増税幅は2.5%で決着、所得税や酒造税と合わせた増税が実現した。

地租条例改正案の採決の際、田口を含めた場合11名となる、日吉倶楽部の全員が賛成したのかどうかは分からない。しかし田口らの動きは、日吉倶楽部内外の、地租増徴に賛成することを躊躇していた議員達の、少なくとも一部の背中を押し、可否に一定の影響を与えたことだろう。憲政本党の党報は、「地租增加案に對する賛否別」として、記名投票ではなかった、第2読会における、地租増徴案の委員会の修正案に対する各議員の賛否を掲載している(第3号55~56頁)。それによれば、日吉倶楽部は賛成が9名、反対が2名であった(賛成の田口を含めた。1898年12月22日付の東京朝日新聞の一覧を用いて数えても同じである)。萬朝報は、田口が島田三郎と共に、渋沢栄一に買収されたとした(1898年12月22日付)。田口は消極財政・自由貿易志向であったが、同時に地租増徴論者でもあった。彼は第2次松方内閣期の進歩党においても、地租の実質的負担が減じていることを指摘して、その増徴を主張していた(『鼎軒田口先生傳』83頁)。市街宅地の地租だけは上げるべきではないという主張は通用し難いものであったし、田口もそのような主張はしていない。彼が変節したとすれば、田畑に比して地価が低かった市街宅地の地租の、高い上げ幅を受け入れた点であろうが、彼(あるいは日吉倶楽部)は上げ幅の縮小には成功している。

1898年12月20日付の読売新聞は、前内閣期に東京市会が陳情委員を定めて陳情したが、地租増徴を3.3%とする代わりに市街宅地租は8%として欠額を補う計画があると聞くと、再び反対運動の気焔を高めたとしている。その前日、19日付の萬朝報は、市部より選出された代議士達が、実業家が同盟して地租案賛成を勧告してきたため苦心していたが、政府が不足分を市街宅地税で補おうと計画しているため、多数の実業家が増租案に反対する形成となり、蘇生の思いをなしていると報じている。市街宅地租が上がることについて、市部に反発があったことが窺われる。しかし田口も島田も、次の第7回総選挙において当選している。日吉倶楽部は市部選出の議員を中心としていたが(註)、田口らが薩長閥政府にすり寄って、その民意を犠牲にしたと言えるのだろうか。その答えは当然ながら、市街託地租の上げ幅をどう評価するかによって変わる。小岩信竹氏は、前の第1次大隈内閣が市街宅地租のみを上げようとし、市部の反発を招いたこと、市部に地租増徴賛成派が多く、彼らは地租全般が上がる場合、市街託地租増徴に反対し難かったこと、市街宅地の実際の地価が高騰していたこと、市街宅地が他の土地より高い税率になった原因としている(小岩信竹「明治30年代の市街宅地、地租増徴問題」。地租増徴と地価修正が実現した第13回帝国議会の次の、第14回帝国議会の様子を見ると、日吉倶楽部が単に薩長閥政府にすり寄ったのだとは考えにくい(本章第3極(⑦⑧⑨⑪)参照)。田口自身、東京市では不快の念を抱き、引き上げられた地租を「田口地租」と言う者があるとしつつ、「爾來地價の騰貴極めて大なりしを以て此等の怨言は全く消散するに至れり」としている(『鼎軒田口卯吉全集』第5巻政治、第6巻財政459頁―1900年8月4日発行『東京経済雑誌』1041号―)。

地租の増徴幅が小さくされたため、第13回帝国議会では、これを補填するための増税も課題となった。既定路線であった所得税、営業税、酒造税の増税、葉煙草専売価格の引き上げの他、家屋税新設、醤油税、郵便税の増税が議論となった。憲政党は家屋税に反対、醤油、郵便両税に賛成する立場を採り、日吉倶楽部と交渉した(1899年1月26日付読売新聞)。日吉倶楽部は、一定以上の自家用についても徴税するという条件をつけて賛意を示した醤油税以外について、反対をした。第2次山県内閣は憲政党も反対をしていた家屋税を撤回したが、郵便税の増税案は成立した。醤油税については、一定以上の自家用の徴税という日吉倶楽部の条件が受け入れられ、その税額を通常の半分にするという同派の並河理二郎の修正が実を結んだものの、同派の当初の具体的な条件等が分からないから、その影響力を安易に評価することはできない(『鼎軒田口先生傳』166頁に、日吉倶楽部が自家用の制限を条件として賛成したことが記されており、1899年1月28日付の東京朝日新聞に、同派が、一定以上の自家用に税を課すことを条件に賛成したことが記されている。修正案に関しては、衆議院事務局編『帝國議會衆議院議事速記録』一四367~368頁。日吉倶楽部に加盟して3日後の島田三郎は、自家用の制限を姑息なものとし、検査に費用がかかる事を指摘している(同364頁)。島田は、自家用をつくることのできる比較的裕福な農家が得をし、貧者は税込みの高額な醤油を購入しなければならないという内容の指摘もしており、そもそも醤油税そのものに否定的であった。日吉倶楽部が醤油税の是非やその条件で一致していたというわけではなさそうだ)。第2次山県内閣の歳出削減が、政府と衆議院の修正を経ても、田口が提議したものよりも小規模な48万円(継続費の総額を含めて200万円程度)となったことが、郵便税の増税等につながったという見方もできる(『鼎軒田口先生傳』165~166頁)。田口は日吉倶楽部が切り崩される前に、現実的に取り得る最善の選択をしたに過ぎないのかも知れない。

以上から、日吉倶楽部は増税に関して多少の成果を挙げたものの、負担増を抑えるための政費節減については、あまり実績を残せなかったのだと言える。

註:『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば、1899年2月6日の島田三郎の参加後の日吉倶楽部11名の選挙区は、京都1、2区、大阪3区、神奈川1区、愛知1、2、4区、岐阜2、3区、島根2、6区と市部が多く、これに含まれていない田口は東京8区であった。同派は1899年3月10日に解散し、同年11月19日に再結成された。その時は、地租増徴案に反対したとみられ(『憲政本党党報』第3号55~56頁、1898年12月22日付東京朝日新聞)、2日後に議員同志倶楽部に参加する岐阜県内選出の2名、帝国党の結成に参加していた島根県内選出の2名(地租増徴案賛成―根拠は上と同じ―)、島田三郎(地租増徴案賛成―上と同じ―)の計5名が参加せず、田口と愛知県第6区の西川宇吉郎(地租増徴案賛否不明―上の憲政本党党報では反対、東京朝日新聞では賛成―)が加わり、市部の比重が大きくなった。