2.キーワードで考える日本政党史

第3極(⑦⑧⑨)~日吉倶楽部の中立性と島田三郎について~

尾崎の発言を取り消させる決議案について、島田三郎は、皇室の尊號を政争に妄用するものだとして、否認する決議案を提出した。帝国党の元田肇は、尾崎が真意を述べた以上、彼の発言を取り消させる動議の意味がなくなったとした。しかし菅原は取り消すことを否定した(衆議院事務局編『帝國議會衆議院議事速記録』一六142~146頁)。またその直前、憲政党の井上角五郎が、官紀粛清に関する上奏案を提出した尾崎の、地租増徴賛成者達が賄賂を受け取ったとする発言について、満場を侮辱したとして懲罰委員に付すことを求めたが、田口卯吉は反対の立場から発言をした(同133頁)。以上から、日吉倶楽部に属したことのある田口と島田について、政権を支持していた多数派(憲政、帝国両党、鹿児島県内選出議員等)に迎合せず、その横暴を許さなかったと評価することができるだろう。なお、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば、島田は日吉倶楽部の再結成には参加しておらず、当時は無所属であった(1900年12月4日付の読売新聞には、「日吉倶楽部より田口卯吉氏~略~無所属より島田三郎氏」とある)。しかし日吉倶楽部系や議員同志倶楽部系による会派であった、中立倶楽部の結成には参加したとされている。その後も行動を共にしていることから、島田が日吉倶楽部の田口と意見を異にして、同派を離れたということは考えにくい。なお、日吉倶楽部の再結成の前に総選挙がなく、再結成前後の議員の共通性が高いため(11名中6名―田口卯吉を含めると12名中7名―が再結成に参加、5名が不参加で、再結成の際に初めて参加したのは2名―田口を除けば1名―)、筆者は同派について、再結成の前後で別の会派であったと見ることはせず、議員を一部入れ替えて存続したものと見做している。12月15日の採決の結果、星らの動議は114対157で否決され、島田は自らの決議案を撤回した。賛成票は当時の憲政、帝国両党の合計議席数すら下回っていたから、日吉倶楽部の全員が反対したのだとしても、彼らの票が賛否を決したとはいえないし、田口や島田の影響力の大きさを測ることは、多く報道された地租増徴の場合より、さらに難しい。

憲政本党が第14回帝国議会で提出した官紀粛清に関する上奏案は、121対164で否決された。採決当日(1899年12月15日)の憲政本党の議席数は120であったから、同党の議員以外の賛同者は非常に少なかったと考えられる。つまり日吉倶楽部や、他の中立派であった議員同志倶楽部の議員達の多くは賛成しなかったと考えられる。上奏案が地租増徴案に関する議員の買収、利益の供与を批判する内容を含んでいたから、時の第2次山県内閣の側に買収された議員が、内閣に不利な上奏に賛成しにくいのは当然である。また、買収されていない中立派の議員も、買収されたかのような印象を与える上奏に賛成できるはずはなかった。この上奏案に対する賛否で中立派を一概に評価することはできないのである。

ここで改めて、島田三郎について見ておきたい。島田は立憲改進党に結成当初から属していた、いわば生粋の改進党系であった。しかし郵船会社の海外航路拡張に補助金を与える第2次松方内閣(進歩党が与党であった松隈内閣)期の航海助成法案の実現に反対するなど、三菱と一線を画していた。他の反主流派とも一体化していなかったから、憲政本党では孤立気味であった(1897年3月25日付萬朝報)。なお、同じ進歩党に属していた田口卯吉、中野武営も法案に反対であった(同上)。これは中小の実業家の立場に立ったものだということもできるが、「澁澤一派」の働きかけがあったともいわれた(1898年12月22日付萬朝報)。そして地租増徴に賛成であったことから、これに反対であった憲政本党から、中立の日吉倶楽部に移ったのである(木下尚江『自由の使徒・島田三郎』42~43頁。「先生が財政意見で憲政本党と相容れず、遂に全く党界を脱して、」としている。また、憲政本党党報第3号55~56頁、1898年12月22日付東京朝日新聞の地租増徴案賛成者-実際は地価修正案の賛成者-に島田三郎の名がある)。島田は足尾銅山の公害を問題にしていた田中正造(1900年2月15日に憲政本党離党、1901年10月23日議員辞職し、天皇に直訴)と近く、選挙権の拡大を唱え、労働問題に取り組むなど、戦前の政界では左寄りといえる政治家であった。しかし、横浜市を地盤とする市部を代表する議員でもあり、憲政本党離党後は、田口卯吉と所属を共にしている。彼らが結成した有志会は、1905年4月に田口が死去した後、吏党系の帝国党等による、大同倶楽部の結成に参加する議員と、新民党の同攻会との、猶興会の結成に参加する議員に、ほぼ半々に分かれた(猶興会、大同倶楽部に各7、立憲政友会に3、無所属に1)。島田は後者であり、立憲国民党の結成に参加するまで、左の極を担ったのである。山下倶楽部は地価修正派を抱き込んできたことで、それまでの中立実業派とは異なる、独自の動きを見せたわけだが、その流れを汲むものの、地価修正派の多くの議員達と離れた日吉倶楽部は、今度は田口と島田を含むことで、全体的に見れば、積極性を持った勢力となったと言える。