2.キーワードで考える日本政党史

第3極・野党に対する懐柔、切崩し(⑩⑬⑱)~中立派の限界~

日吉倶楽部は確かに、地租増徴と地価修正の実現に寄与した。しかしそれは、所属議員が切り崩されていく危険がある中で見せた主体性であった。薩長閥と民党(この場合は自由党系)が妥協し、協力するということは、民党が衆議院においてのみ強い存在であり、薩長閥が衆議院においてのみ弱い存在であることで生じたこう着状態を、彼らが自ら解消しようとするということである。それでは、中立派が果たし得る役割は、小さくなる(本来そのような志向を持っていなかったわけだが、田口らの登場で少し変わっていた)。衆議院で吏党系と民党(自由党系)の合計が過半数に迫れば、こう着状態の解消は成功に限りなく近付き、中立派はキャスティングボートすら握れなくなる。2大民党を共に薩長閥政府寄りとすること、各勢力を切り崩して政府支持勢力を新たに形成することが有効でないことが示されていたこの当時、薩長閥の衆議院における多数派形成は、2大政党の一方を味方とし、それに他の支持派を加えても衆議院の過半数に届かない場合、野党第1党を切り崩す、という順で行われるようになる。これは、政権の主体が薩長閥でなくても同じであった。野党第1党が切り崩される時代に、本格的に入ったのだといえる。立憲政友会の結成以後は、同党が衆議院の過半数を超えていることが多々あったために具体例は乏しいが、第8回総選挙後の政友倶楽部、第11回総選挙後の大正倶楽部と、この議員同志倶楽部に、切り崩された議員達による会派という性格がある。それでも、2大民党が共に、吏党の系譜を合わせても過半数に届かない状況であれば、キャスティングボートを握る中立派が存在感を示す機会は訪れる。しかしそのためには、中立派も一定の主体性を持つことが必要であった。しかし、田口卯吉のような主張のはっきりした議員もいたものの、中立派は受け身の存在から脱しようとはしなかった。第2次山県内閣が地租増徴、地価修正、選挙制度の改正などを達成したことから、中立派をまとめられるような重要課題も見当たらなくなった。そして、衆議院の過半数を上回る立憲政友会の結成により、キャスティングボートを完全に失ったのであった。しかも、自由党系は、薩長閥と憲政本党の間に位置し、組む相手を戦略的に変えて、自らの地位を高めていた。右から薩長閥・吏党系、自由党系、改進党系と並ぶ1列の関係において、中立の立場は結局、その位置にあることを強みとしていた、自由党系と同じ位置にあった(薩長閥と自由党系の間という位置で影響力を発揮するのは、衆議院では基本的には自由党系につくことになる上、自由党系が薩長閥-の一部-と接近することが多すぎて、現実的ではなかった)。このため、ただでさえ影響力を発揮するのが難しかったところ、自由党系の立憲政友会が、過半数を上回ったのである。

憲政党、国民協会(1899年7月に帝国党に改組)、鹿児島県内選出議員を合わせても、衆議院の過半数を約15議席下回る状況であったにもかかわらず、日吉倶楽部が地租増徴、多数派の横暴の阻止に一定の役割以外に何らかの重要な役割を果たすということはなかったわけだが、『鼎軒田口先生傳』は、憲政本党の議員数が大きく減って、同党の出席者が少なくなったことを、このような状況の要因に挙げている(166頁)。これは政府側の切り崩しによって野党憲政本党の議席数が減り、議員同志倶楽部を結成する議員など、比較的政府寄りの議員を含めて中立派が増えたことを、主に指していると考えられる。つまり野党の総数が減り影響力も低下したということである。完全な野党が過半数から遠ざかれば、準野党の中の、野党に近い立場の議員の影響力は弱まる。中立派が薩長閥政府側(右)に引っ張られやすくなるのである。

日吉倶楽部の限界は、やはり10議席程度という、その勢力の小ささにも起因している。山下倶楽部は日吉倶楽部と同じく、単独でキャスティングボートを握ることのできる議席数にはわずかに届いていなかったが、日吉倶楽部の約5倍の議席数と無所属議員の動向によって、単独で握っているのに近い状況にあった。第5回総選挙から衆議院の解散までの期間が短かったため、山下倶楽部の影響力を測ることは難しい。しかし地価修正を前提とした地租増徴の実現へと、自由党の変化をより顕在化させて状況を前に進めた。衆議院議長選挙における同派の注目度も高かった(『補論』㉓参照)。しかし、日吉倶楽部の勢力の小ささが、同派の影響力を弱めたというのは正確ではない。彼らの勢力の小ささは、当時の第3極の限界が示された、その結果であったからだ。そもそも、議員同志倶楽部12名のうち3名は、日吉倶楽部の約半数と同じく、山下倶楽部の出身であった(結成時の日吉倶楽部の10名中5名が、また同派に所属していたことのある議員15名中8名が山下倶楽部の出身であった)。そして2大政党、無所属にも山下倶楽部出身者はいた(第6章第3極実業派の動き(①⑤⑨)の表⑥-A参照)。日吉倶楽部が、結成時55議席という規模を誇った山下倶楽部系が分裂した後の、事実上の残部に過ぎなかったこと、つまり山下倶楽部の統一性が弱く、その系譜から憲政党に参加した者達が離れたことにこそ、山下倶楽部の後継たる日吉倶楽部の限界があったと言うべきだと考える。そしてその日吉倶楽部も、立憲政友会参加者と残留者に、さらに分裂をした。第13回、14回帝国議会期、中立実業派であったと言える日吉倶楽部約10名、吏党系(国民協会→帝国党)約20名というのが、衆議院における第3極の勢力であった。第14回帝国議会期には、地価修正賛成派であった憲政本党の離党者等による、新たな一般的中立の勢力であった議員同志倶楽部の10名強が、これに加わった。どの会派にも属さない無所属議員も約30名いた。しかし無所属を含めた第3会派以下の合計は、第6回総選挙以前の最後の議会である、第12回帝国議会における衆議院の解散当日のそれ(113)を大きく下回っている。なぜかといえば、第12回帝国議会の後に2大民党が合流し、政権をも得たからである。なお、2大民党が合流した背景には、山下倶楽部の平岡浩太郎の働きかけもあった。基本的には受け身であった中立派にも、平岡や田口のような人物はいた。しかし彼らが既成の3大政党(2大民党と吏党)から移ってきた者であることも、忘れてはいけない。平岡は国権派の福岡玄洋社の出身であったが、第2次伊藤内閣に対して軟化した吏党系から親薩摩閥に移り、同社の頭山満が国民協会の佐々友房と行動を共にしていたことに反発していた(『玄洋社社史』507頁)。そして第5回総選挙後は中立実業派の山下倶楽部の結成に動き、これに参加した。この一連の行動の要因は、対外硬派としての第2次伊藤内閣への反発、支持した第2次松方内閣に対する不満足、同内閣に代わって、再度伊藤内閣が出現したことに対する反発がであったと思われる。中立派、実業派の形成にこだわっていたのなら、2大民党の合流に動くはずはないし、後に憲政本党に加わるということも考えにくいからである。