2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)~繰り返される歴史~

改進党系である憲政本党が野党路線を採ったのに対して、自由党系である憲政党は、準与党となった。本来の形(第2次伊藤内閣期につくられた形)に戻ったわけである。自由党系は、要求が受け入れられず与党にならなくても、結局内閣を支え、自らに不利益な内閣の方針を、妥協を引き出しつつも受け入れた。そして、選挙に関する実利を得た。改進党系に対する優位を確立することを最優先にした行動であったといえる。自由党系は当時はまだ、総理大臣を決め、官制をいじることができるなど、事実上の特権を持っていた薩長閥の劣位にあった。しかし薩長閥を先頭に、自由党系、改進党系と並ぶ構造において、薩長閥と改進党系の間に位置した(政治の中心ではなくても、中央にはいた)こと、議席数の多さを利用して、より大きな意味でのキャスティングボートを握り、薩長閥と並び立つところまで上がる階段を、着実に上っていた。

一方で改進党系は、自らの本来の理念を重視する姿勢を採った。注目すべきは、不遇な立場に身を置くこととなった改進党系が、かつて、自由党の薩長閥政府(の中心であった伊藤系)への接近によって展望を失った時と同様に、対外強硬派の連携に活路を見出したことである。同党内で対外硬派の中心となったのは神鞭知常(有楽組出身)、平岡浩太郎(玄洋社初代社長、元国民協会、山下倶楽部)であった。山県系は、伊藤・自由党系に比して、大陸への軍事的な進出に積極的であったから、これは後に、山県系-桂系との接点をつくることになる。しかしだからといって、1列の関係が変化するというものではなかった(第8章参照)。違う路線を採れば劣勢を挽回できるということでもなかったが、対外強硬姿勢を採らないと党内の足並みが乱れるという、「爆弾」を、再編を経た改進党系はかかえていた(とは言っても対露強硬姿勢が、立憲改進党出身の尾崎行雄に、憲政本党離党、立憲政友会参加の理由にされている)。憲政本党の前身と言える進歩党の結成に参加した勢力のうち、立憲改進党に次ぐ第2の勢力であった立憲革新党には、東北地方に地盤のある野党的な議員達が含まれていた。彼らは地価修正によって恩恵を受けることのできない、減租を望む野党的な勢力であった。そして非優位政党であることの多い改進党系にとって、自由党系の優位に立つことのできた数少ない地域の代表者達であった。上で述べた対外強硬派には野党的な面があり、陸軍の軍縮について、この民党的な、消極財政志向の議員達と一致していた議員もいたが、北清事変後は、対外強硬派=対露強硬派という面が強まるから、消極財政志向が強い議員達との相性は悪くなる可能性が高かった。つまり、党内で左に反主流派のかたまりがあるという面と、左右に反主流派があるという面があり、寄り合い所帯ならではの憲政本党の弱点は、深刻なものであった。