日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
野党第1党の分裂(⑬)~新党構想と沈む土佐派~

野党第1党の分裂(⑬)~新党構想と沈む土佐派~

『河野磐州傳』によれば、河野広中は、立憲政友会に参加しなかった板垣と、新たな第3党を結成しようとした(下巻574頁)。その新党構想とは、自由党系の非主流派や河野にとっては自由党の再興であり、当時河野が属していた憲政本党等との、非政友会勢力の結集による、2大政党化を目指したものであった。優位政党の不平派が複数結び付いたり、非優位政党と結ぶことは、現代でもある。竹下派の後継争いで敗れた羽田・小沢派が結成した新生党に、安倍派の後継争いで敗れた加藤六月派が合流したこと、彼ら(新生党)が既存の野党と、非自民・非共産連立を組んだことが良い例である。小泉内閣期の郵政民営化反対派にも、不平派の連合という面があり、その一部は野党第1党の民主党に接近し、連立を組むに至った。ただし、板垣らの例は特別な例である。なぜかといえば、自由党系は第1党であっても、自らが中心の政権を誕生させることができないでいたことから、議院内閣制である第2次大戦後の、自民党とは大きく異なるからだ。

自由党と伊藤系の、最初の政界縦断的な動き、その結果である第2次伊藤内閣への板垣の入閣と離脱(事実上の自由党の政権入りと離脱)。この動きは党としての存在感を増す上では有効であったが、自由党内を見れば、この動きの中心であった土佐派は、伊藤系と自由党系による連立が継続しなかったことの責任を負った。次に、進歩党に政権を離脱された第2次松方内閣への入閣の話を壊し、第3次伊藤内閣への入閣に失敗し、改進党系と合流して政権を獲得した。これについても、やはり自由党系の影響力を強める上では有効であり、自由党系が、政界全体のキャスティングボートを握っているような状態になった。しかし、これらの動きの中心にあった土佐派は、やはり負の面の責任を負った。この憲政党(自由党系や改進党系)の第1次大隈内閣(隈板内閣)を壊し、再び伊藤系との政界縦断に進む、その中心的な役割は、もはや土佐派が担うことは難しく、本来近い志向を持つ、星亨に奪われた。第2次山県内閣に協力することに対する不満が党内にはあったが、その協力関係を、実現した上で壊して、伊藤系との合流へと進む役割も、星が担った。第2次山県内閣における、自由党系にとっての負の面を、星は、直ちに伊藤系と結ぶことで回避した)。自由党系の立憲政友会への刷新の前後に、党内で中心的な存在ではなく、土佐派の板垣が持っていたカリスマ性が、板垣から薩長閥要人の伊藤へと、トップが変えられたことで薄れ、土佐派の再起は難しくなった。議院内閣制でない時代、政権入り→政権獲得へと動いた大派閥が、その失敗の責任を負って、一気に敗者に転落するという、議院内閣制下の優位政党(自民党)にはない、激しい変化があったのである。この落差の大きさは、当然ながら、大きな不満となる。

土佐派が自由党系の中心であれば、彼らの動き(薩長閥との決裂)=自由党系の動きとなる。しかしそうでなくなれば、彼らの伊藤系との決裂は、大政党からの離党となるため、それまでよりずっと大きなリスクが伴った。そこで改進党系との連携という選択肢が浮上するわけだが、それには自らの離党によって、立憲政友会を過半数割れに追い込まなければならなかった。それは、土佐派が丸ごと離党すれば簡単なことであったようにも見える。しかし、政権を担い得る大政党から、多くが離党するということは現実的ではない。それの立憲政友会の過半数割れが、離党者の続出によって現実的になった1903年の中頃、彼らは初めて離党に踏み切るのである(第8章補足1列の関係④等参照)。

 

 

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