日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1党優位の傾向(⑮⑯)~優位性の強化~

1党優位の傾向(⑮⑯)~優位性の強化~

山県は、薩長閥政府の要人という性格が残る伊藤が党首(総裁)であり、自身を裏切った(あくまでも山県から見た場合)自由党系を基盤とした立憲政友会の結成に否定的であったが、同党総裁の伊藤に政権を委ねざるを得なかった。結成されたばかりで、政権担当の準備も整っていない立憲政友会に政権を渡すことで、動揺させようとしたという面もある。しかしそうであっても、遅かれ早かれ政権を渡さざるを得なかったのだと言える。この内閣の交代劇には、野党に対する政権の明け渡しと同時に、長州閥内の政権のたらい回しという面もあった。第4次伊藤内閣は、薩長閥の考える政権の正統性と、民党の考える政権の正統性を兼ね備えたものであり、かつてない強力な政権となり得た。これは立憲政友会の優位性と一体のものであった。実際には貴族院の反発に苦労したと言っても、詔勅の力を借りて乗り切るという、純粋な民党の政権には難しい手法を用いることも出来たのである。それでも、反政友会の貴族院と、政友会が優位にある衆議院の不一致、つまり薩長閥系中心の貴族院と民党系中心の衆議院という構図の転換の失敗が、明確になったと言うことはできる。立憲政友会となった自由党系の、自らに対する警戒感の除去という、政権を担当する政党として定着するための課題は、薩長閥内の対立もあったから、完全に達成することは容易ではなかった。さらに野党に転落したことで、薩長閥との駆け引きが必要になり、その副作用もあった。その副作用の1つであったと言える、伊藤の総裁辞任を経ても、なお完全に達成するということが、立憲政友会の最大の課題となる。それは山県系の総理大臣・総理大臣候補、桂太郎との接近であった(第9章参照)。

 

 

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