2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係(⑭⑮⑯)~広がる2大政党の格差~

北清事変は、1列の最後尾に立つ憲政本党の背中を、対外強硬派として活路を見出す方向へと進むように、押した。政界縦断派主導の現実的な自由党と、対外硬派が並び立った第3回総選挙前後の状況が、再現されたという面がある。ただし、その当時と異なり、衆議院の過半数を自由党系、つまり立憲政友会が握っていた。憲政本党には2つの道があった。それは、自由党系(立憲政友会)とは別のルートで薩長閥に接近するか、野党色を強めるかであった。前者には、対外硬派として薩長閥と協力するという可能性があった(註)。これは山県系と組むことを想定したものだと考えられる(そうでなければ現実味がなさすぎる))。しかし実際には、薩長閥と接近した自由党系のように現実的になろうとする、増税に賛成する姿勢として、より明確に現れたように見える。これは、少なくとも短期的に見れば、時の政友会内閣を助ける行為であり、薩長閥に接近するルートとして有効であったとは言い難い。別ルートとしては、薩摩閥の影響力が弱くなっていた当時、長州閥山県系との接近が唯一、有効なものであったと言える。しかし山県を支える勢力は当時、伊藤の立憲政友会のみならず、その政権による増税にも否定的な、つまり野党的な立場を採っていた。それでも、元老であった山県本人が野党だとは言えなかったから、仮に憲政本党が反政友会内閣の立場を採ったからといって、もともと近い存在でもなかった山県系との連携に、容易に進めるわけではなかった。むしろ山県は、自身の元老という立場から、貴族院での増税法案否決という事態の収拾に動いた。野党路線を採ることは、同党の野党としての存在を示すことにはなり得ても、それで党勢の維持・拡大を期待することができるというわけではなかった。当時の憲政本党は、低負担を志向していても、有権者からの支持獲得につながらないことを自認しつつあった(憲政本党の催す減租大会は憲政党の大会の盛況に及ばなかった―那須宏『帝国主義成立期の天皇制』273頁―)。この点も考慮して、憲政本党は増税容認という現実的な姿勢(消極財政志向から積極財政志向への転換にもつながり得る)に転換したのであったが、増税容認を有権者が支持するのは、往々にして見返りを期待することができる場合であり、見返りを与えることは、立憲政友会のような与党でなければ困難であった(国の経済的な危機を憂いている者であっても、まずは節約だという主張は当然あり得るし、経済情勢悪化の影響を強く受ける有権者は、実業家層であった。野党を支持し得る実業家はすでにしていたし、憲政本党の姿勢が、政党と距離を置いていた実業家を引き付けるということは、考えにくかった)。

第1党に続き与党の地位を手にした自由党系は、それゆえに可能である積極財政によって、市部の実業派などからの支持も、郡部からの支持も、拡大させる可能性を秘めていた。それに対して改進党系(憲政本党)は、別ルートによる薩長閥接近も、野党的主張による支持の維持・拡大も見込めないという、袋小路に追い込まれていた。党の態度を転換させることは分裂の危険を伴う。そして当時の憲政本党は、成果を得にくい方針転換によって、大量の離党者を出したのであった。同党は、第1党に対抗し得る勢力とはいい難い規模となった。貴族院は、結局は天皇を動かすことの出来る、権力を握る側に従わざるを得ない面を持っており、徐々に変化を見せる。相手が民党内閣ならば、まだ権力を握ったとは言えない状態であったから、そのようなことはなかったが、当時の政友会内閣は、自由党系による内閣というよりは、伊藤の内閣であった(自由党系もそのことを利用したと言える)。憲政本党にとって事態を打開する唯一の方法は、対露強硬路線を採り、伊藤のような対露融和志向ではなかった山県系との接近を図るというものであった(帝国党は、山県系であり、対外強硬派でもあったから、これは、衆議院における非政友会連合の形勢とも、一体的な選択肢であった)。しかし、対外硬強派には野党的な面もあったから、展開の仕方によっては、野党に固定化される危険性があった。

註:犬養毅は第4次伊藤内閣を倒し、対外硬派の内閣を成立させようとしていた(『犬養木堂書簡集』56頁、1901年2月28日付小橋藻三衛宛)。