日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(⑰)~野党となった立憲政友会~

1列の関係(⑰)~野党となった立憲政友会~

第1次桂内閣期の立憲政友会は、ポジションは野党~準野党であったが、党首の伊藤が元老であったので、野党とは呼びにくい存在であった(桂と伊藤の交渉は、過半数割れしている与党第1党と、野党第1党のそれのようにも見える反面、薩長閥内の調整のようにも見える)。そして立憲政友会党は、衆議院の過半数を握っていたため、桂にとって無視できない政党であった。衆議院を解散して同党の議席減を策すという選択もあり得たが、伊藤の政党を弾圧することは、難しかった。袋小路に追い込まれ、立憲政友会から第1党の座を奪う力は到底なかった憲政本党にとって、立憲政友会の野党化は、1列の関係を終わらせる絶好の機会であった。憲政本党には2つの道があった。それは山県系との政界縦断か、立憲政友会との野党共闘(自由党系と改進党系の連携の復活)であった。ただし、山県系とは長く対立関係にあり、自由党系とも、大隈憲政党内閣崩壊に起因するわだかまりがあった(第2回総選挙後にも野党連携を離脱されている)。前者の場合は、衆議院の議席数が足りなかった(非政友会の全議員が集まっても過半数には届かない状況であった)が、第1次桂内閣・薩長閥のバックアップを受ければ、総選挙で議席を大きく増やすことは可能であったと考えられる。ただし、三四倶楽部との再統一を果たさなければ、第2次桂内閣の支持基盤となるにも、立憲政友会との、比較的対等な野党共闘をするにも、議席数が少なすぎた。分裂したばかりでの再統一というのは、成立してしまった増税案を仕方がないと受け入れ、相違点が消滅したと解釈して合流することであった。これは理念、政策面における対立にふたをすること、あるいは分裂を、ただの権力闘争と認めるようなことであった。実際にどうであったかということは、なかなかはっきりとは言えない。再統一の交渉を難航させたのは主導権争いであったが、それは政策的な差異を背景にしたものでもあったからだ。ともかく再統一は、少数の議員の憲政本党復党という小規模なものにとどまり、憲政本党の展望は開かれなかった。

憲政本党は、貴族院との融和を図っていたと考えられる(もともと自由党系は一院制を志向し、立憲改進党はイギリス流の二院制を志向していたという点では、おかしなこととまでは言えなかった。木下氏も示す-「第十六・十七議会期における憲政本党」84頁-1901年10月9日付の萬朝報に、このようなことが記されている)。確かに貴族院と一体化すれば、対等に近い二院の一方の多数派になることはできる。しかし問題があった。従来改進党系と比較的近かった勢力(懇話会→庚子会、三曜会→旭俱楽部―朝日倶楽部―と、双方が合流した土曜会の系譜)とこれをすでに貴族院で下していた山県系の勢力、この双方と安定的に結ぶことは難しかったと考えられる。そうなると山県系と結ぶことになるが、それで貴族院において多数派となっても、改進党系の実態も、改進党系に近い勢力も、そこにはほとんどないことになる。それでは憲政本党は山県系の衆議院部門となるに過ぎず、吏党系とあまり変わらない。しかも、吏党系よりも外様となる。これで展望を打開することは極めて難しく、結局、自力で議席を増やしておかなければ、埋没するだけであったはずだ(憲政本党は吏党系より組織力があったとは言っても、山県系に連なることで、議席を大きく増やせたとは考えにくい。何度か総選挙を経ればもしかしたらとも思うが、結局その前に、薩長閥政府にとって立憲政友会の協力が必要になってしまう)。そして、三四倶楽部との再統一という、議席を増やす最も確実な方法は、山県系に寄ることと両立しがたかった(第4次伊藤内閣―政友会内閣―の増税については、貴族院と吏党系と三四倶楽部が反対、憲政本党が賛成となったが、その背景には伊藤・立憲政友会に対する貴族院の反発があった。貴族院には、消極財政について三四倶楽部と一致できる勢力もあったかも知れないが、薩長閥側と野党的な三四倶楽部は、相反する勢力であった)。

憲政本党の議席数があまりに少なく、また、桂と伊藤・立憲政友会が明確に対立する構図になることが難しかったとしても、憲政本党には、立憲政友会との野党共闘へと進むしか、実際にはなかったと言える。改進党系(憲政本党)と、自由党系(立憲政友会)とのわだかまりは、改進党系が、裏切られたことを水に流せばすむ話であったし、自由党系の劣位に立つことを受け入れさえすれば、障壁は小さかったからだ。結成時を含めて、逆境を経験したことが無い立憲政友会には、野党となることに否定的な議員がおり、同時に、野党化して政権を奪取しようという、民党らしい議員もいた。後者が多数派となる形で立憲政友会が大きく分裂すれば、衆議院で過半数に届く連合軍の主導権を、憲政本党が握ることもあり得た。これは展望を失いかけた同党にとって、大きなチャンスであった。同じく以上のことから、桂は立憲政友会を分裂させるか、多くを軟化させて、衆議院における明確な敵が少数派となる状況をつくろうとしていた。楽観的にも見えるが、伊藤が党首であったことを考えれば、立憲政友会の多くを味方にすることは、十分に期待し得た。何より、超然内閣を貫く以上は、それしか策がなかったのである。立憲政友会が、切り崩しを受ける中で第1次桂内閣に譲歩したことは確かだ。立憲政友会は第1党であったため、憲政本党の準与党化による孤立に耐えることも出来たであろうが、党内に第1次桂内閣寄りの議員を少なからず抱えた状況では、彼らが離党し、孤立を脱することがより困難になる危険性があった。しかし、分裂さえ回避できれば、山県-桂系への接近による準与党化か、憲政本党への接近による野党連携か、選択をし、状況を動かすことができた(立憲政友会が分裂しなければ、憲政本党の山県-桂系への接近は意味を失う)。立憲政友会分裂の有無が政界の行方を左右する状況であった。だから同党は、順境にあったとまでは言えなくても、明らかに政局の主役であった。

 

 

Translate »