日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・1党優位の傾向(⑱)~鉄道政策に関して~

第3極・1党優位の傾向(⑱)~鉄道政策に関して~

井上らの立憲政友会除名が、直ちに他の議員の離党を招くことはなかった。立憲政友会の結成に参加した実業家の、一定数の離反をもたらした。自由党系は、元来鉄道国有化に積極的であったが、立憲政友会結成前の憲政党の時代には、土佐派は積極的であったものの、全党的にはそうではなかった。板垣が唱えた外債による国有化に賛同した実業家達は、経済研究同志会を結成した(憲政本党は外債の募集にも否定的であった)。厳しい経済状況が続いたことから、国による私鉄の買い上げに賛成する立場に転じた実業家も多かった。渋沢栄一もその1人である。経済研究同志会の会長には、結成早々に国民協会を離れていた渡辺洪基が就いたが、会の中心人物は、当時北海道炭坑鉄道理事であった井上角五郎であった。他の参加者には雨宮敬次郎、大倉喜八郎、岡田治衛武(後に大同倶楽部衆議院議員)などがいた(松下孝昭「日清・日露戦間期の鉄道国有問題」6頁)。経済研究同志会と共に鉄道国有化を唱えていた、立憲政友会の政友商工倶楽部は、除名となった井上ら3名の復党要望が容れられなかったことから、同党を離れ(松下孝昭「日清・日露戦間期の鉄道国有問題」22頁)、名称から「政友」の2文字を外した(『井上角五郎先生伝』261頁)。井上は、地元の広島県における海軍呉製鋼所の建設実現のために、妥協を策していた(『日本歴史大系』四近代一916頁。原敬の1901年1月23日~24日の日記からもうかがえる―『原敬日記』2巻471~475頁―)。立憲政友会結成前の星らの方針、立憲政友会の結成によって自由党系と合流した実業家の、一部が離れたのである。立憲政友会の伊藤総裁ら執行部は、鉄道国有化に消極的であったが、桂は軍事上利点があることから積極的であり、鉄道国有化問題は、立憲政友会を分断する道具となり得た。国有化に軍事上のメリットがあることは、鉄道国有化を求める実業家と対外強硬派の一部の親和性を高める助けとなり得た。なお、鉄道国有化に積極的であった立憲政友会の衆議院議員には、同党を除名されて、第8回総選挙後の政友倶楽部に参加する関信之介、第8回総選挙後に立憲政友会を離党して自由党に参加する小田貫一がいる(1901年12月19日付東京朝日新聞。17日に田健治郎を委員長に選出し、国有化に務めることなどを決議した会合に参加していた議員達を挙げている中に、関と小田の名がある)。第16回帝国議会において、公債のみに限らず、財政の都合によって、普通歳入からも支出することが可能となる、鉄道敷設法中改正法律案が第1次桂内閣によって提出され、立憲政友会が賛成に転じたことによって、1902年1月28日に衆議院で可決、成立に至った。消極財政志向の三四倶楽部は、これを例外的な1年度限りのものとする修正案を提出したが、否決された。1901年12月13日付の東京朝日新聞は、財政調査会が一般歳入に繰り入れなくても、公債支弁事業の継続が可能だとして、立憲政友会の総務委員会が法案反対に決したが、衆議院議員では賛成が多いとしている。当時の状況下消極財政を採ってはいても、自由党の時代から積極財政志向を強めていた同党には、第1次桂内閣の方針を支持する議員を含め、上に見たように、内閣に切り崩されている議員が多かった。同党は、北清事変に関する償金を特別会計とする法案も前年中に撤回していた。

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