日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~同志倶楽部結成の経緯~

補足~同志倶楽部結成の経緯~

憲政本党を離党した議員達による三四倶楽部からは、第7回総選挙前、目指していた同派と憲政本党の再統合が進まないことに反発し、新潟進歩党として独立するを結成す議員達、また憲政本党に復党する議員達が出た(第6章⑱参照)。その影響もあり、同派の総選挙における獲得議席は6に過ぎなかった。その6名の当選者のうち、総選挙後に憲政本党に復党した工藤行幹を除く5名(3名が立憲革新党出身―大東義徹、加藤六蔵、金岡又左衛門―、1名が中国進歩党出身-竹内正志-、1名が第3回総選挙後の独立倶楽部の出身―初見八郎―であり、立憲改進党の衆議院議員を経験している議員はいなかった―『中小会派の議員一覧』第7回総選挙参照―)、新潟進歩党の全7名、無所属の1名(森源三)と1902年12月6日、同志倶楽部を結成した。

新潟進歩党は、第6回総選挙まで自由党系と改進党系が議席を分け合っていた新潟県内で、計14議席のうち、佐渡(定数1)を含めて、半数の7を得た。新潟市(定数1)、郡部のうちの1議席は、壬寅会に属すこととなる鈴木長蔵、高橋慶治郎がそれぞれ得た。阿部恒久氏によれば、高橋は酒造組合を後ろ盾に中立として、鈴木は中立を標榜しながら新潟進歩党の支援を受けて、当選した(阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』274頁)。立憲政友会は郡部で5議席を得た。憲政本党の新潟県内選出議員は、全員が第7回総選挙の前に離党、三四倶楽部、新潟進歩党を結成しており、新潟県における第7回総選挙の結果は、現状維持に近いものであった。ただし新潟進歩党では、第7回総選挙において、大竹貫一が返り咲くなど、全衆議院議員が入れ替わった。そして7名中、立憲改進党出身の2名を除く5名を国権派が占め、立憲改進党系の衆議院議員が坂口仁一郎しかいないという状態になった(阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』274頁-久須美秀三郎も立憲改進党系であったが、姻戚関係にあった大竹にコントロールされていた-)。国権派の影響力は間違いなく強まった。このことは、新潟進歩党と三四倶楽部による、つまり分裂前の三四倶楽部系の再結集となった同志倶楽部の、新民党としての性格に影響を及ぼしたのだろうか。

1902年12月20日付の読売新聞を見ると、同志倶楽部は当時、第1次桂内閣に否定的な勢力であったようだ。伊藤と憲政本党が政府を屈服させることを、同派が期待していたということを伝えているが、第1次桂内閣が超然内閣であったことに主に反発していたのか、内閣の外交に主に反発していたのかは分からない。新潟進歩党は、2大政党の共闘にも関わっていた(1903年1月16日付読売新聞)。稲作地帯を基盤とする新潟進歩党は、地租増徴にも反対であり(1903年1月13日付読売新聞)、大竹貫一も第18回帝国議会において、当時の経済、財政状況の下での海軍拡張に反対している(『帝国議会衆議院議事速記録』一九116頁)から、新民党らしい存在であったように思われる。そうであったのなら当然、同志倶楽部も新民党らしい新民党であったということになる。三四倶楽部として結成された勢力が、総選挙を経て同志倶楽部となっても、消極財政志向が大きく変わったわけではなかったのだと考えられる。1903年1月13日付の読売新聞によれば、新潟進歩党は以下の決議を為した。

一我黨は増祖継續案を以て衆議院の解散を盲斷せる政府の行動は公約に背き與論を無視し立憲の本義を沒了せるものと認む

二我黨は我黨所属前代議士を再選するを至當となし併せて第十七議會に於て行動を同くせる各派前代議士の再選を望む

三我黨は一部の營業者を代表する候補者を以て將來に悪弊を残す者と認む

「一部の營業者を代表する候補者」とは、酒造組合を後ろ盾としていた壬寅会の高橋慶治郎を念頭に置いた表現であったのだろうか。いずれにせよ新潟進歩党は、実業派よりは、やはり民党と親和性が高そうな政党であった。

 

 

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