日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
選挙制度の影響・2大民党制・第3極(②)~市部と郡部~

選挙制度の影響・2大民党制・第3極(②)~市部と郡部~

第7回総選挙は、大政党が小選挙区で振るわず、大選挙区で健闘するという、制度の特徴とは逆の結果となった。選挙制度の改正は、市部よりも郡部に強かった2大政党(立憲政友会も自由党の性格を受け継いだ面が大きかった)に不利なものであった。郡部は定数が多いにもかかわらず、有権者が1人の候補の名しか書けない制度であったことから、比例性が強まったためである。2大政党が強いとは言っても、選挙区を分割するすみ分けは簡単ではなく、第3党以下、無所属の候補の当選が容易になったのである。ところが、郡部では2大政党、つまり立憲政友会と憲政本党の当選者が多かった。2大政党、特に自由党系の立憲政友会はそれだけ郡部で強く、候補のすみ分けにも、ある程度成功したのである。一方、地主層を支持基盤とする2大政党が比較的弱かった市部では、無所属(解散したと言える中立倶楽部系を含む)の候補者が、比較的多く当選した。市部の多くは、制度的には大政党に有利な1人区(小選挙区)であったが、知識層との関わりが印象的な改進党系も、実業家層と接近しようとしており、伊藤系と合流した自由党系も、そのような効果を期待することはできない状況であった。だからこそ、実業家等が市部を独立の選挙区とし、彼らの代表を当選しやすくすることを求めていたわけである。その動きがある程度は実を結んだのだというように見える。1902年12月28日、第8回総選挙へと繋がる衆議院解散当日の、市部選出議員の所属会派を確認する。立憲政友会26、憲政本党13、壬寅会15、帝国党3、無所属16、計73名である(北海道の札幌区、函館区、根室区を除く)。壬寅会は、所属議員の半数以上(28名中15名)が市部の選出であったのだ。同日の立憲政友会の議席占有率は約49.5%、憲政本党のそれは24.7%であったが、市部だけを見ると、立憲政友会が約35.6%、憲政本党が約17.8%にまで下がる。これに対し壬寅会の議席占有率は7.4%、市部に限れば20.5%と、全く逆の傾向を見せている。ちなみに議席占有率約4.5%の帝国党は、市部に限ると約4.1%となり、下がりはするものの、2大政党ほど顕著ではない。

 

 

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