日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(③④⑤)~壬寅会~

第3極(③④⑤)~壬寅会~

立憲政友会の誕生によって中立派は再度裂かれ、同時に、衆議院におけるキャスティングボートをも失った。当時は、中立会派の存在意義を特に見出しにくい状況であった。しかし選挙制度の変更にも助けられ、中立の議員は増えた。そしてその中には従来通り、多くの実業派が含まれていた。そのような状況下、新人議員達の一部が壬寅会を結成した。地主層を基盤とする大政党とは異なる、市部を代表する面の大きな勢力が、新たな中立派として現れたのだといえる。それは以前の中立会派に比して、より厳正な中立性、独自性を追求するものであった。ただし、市部の大部分をまとめあげるものとはならず、その議席数は最大でも28であった。これは議席占有率でいうと約7.4%であり、第7回総選挙の前の定数が300であった時期に直すと、約22.3議席であった。市部が独立した選挙区となる前の、第7回総選挙前の中立倶楽部と、同じ水準に留まっていたのである。それでも、山県-桂系、第1次桂内閣に近い議員を排除していたのだから、中立実業派の刷新は、順調であったと言うことはできる。

1903年4月23日付の読売新聞は、壬寅会を評判が最も高い中立議員の団体であったとしている。同派がそのように評価された理由の1つには、当面の問題のみならず、社会上改廃すべき法律を根本的に攻究し、提案するという姿勢を見せていたこと(1902年11月21日付萬朝報)があると考えられる。また壬寅会は、衆議院の正副議長は党派のそれではなく、衆議院のそれであるとして、副議長を立憲政友会が得ることで、正副議長を同党が独占することに異議を唱えていた(1902年11月26日付萬朝報)。また同派の会員のうち5名は、当時の首相と蔵相(桂と曽祢荒助)に、妥協の見込みがない地租増徴(2大政党が認めていなかった地租増徴の継続)、海軍拡張両案を撤回して予算案を成立させ、次の議会までに国民を満足させる行政改革を行うべきだとする覚書を提出した。それは、衆議院の解散が、商工業に悪影響を与えることを危惧したからでもあり(註)、財政規律を重視する消極財政志向が現れていた点と共に、中立実業派の主張だと言えるものであった(当時経済界は、財政について危機感を強めていた)。そして同派は、海軍拡張に関する齋藤海軍総務長官の説明を聞いた上で、地租増徴に反対することを決議した(1902年12月9日付東京朝日新聞)。壬寅会は、単なる様子見に留まらない、都市部中心の勢力ならではの視点に立った、政府とも既成政党とも一線を画す、中立会派であろうとしたのだと言える。それは、展望を容易に開き得る方向性ではなかった。しかし、野党第1党が衆議院の過半数を超え、薩長罰政府寄りの中立という立場が存在価値を失っていたことに、対応した姿勢であったと、見ることができる。積極性を持ち、一部の議員を排除してもなお、加盟者を得て議席を増やした壬寅会であったが、大きな挫折を味わうことになった。それは、第7回総選挙からわずか4か月半ほどでの衆議院の解散である。壬寅会の手の届かないところで、行政権を握る薩長閥と、衆議院の定数の約4分の3の議席を持つ2大政党によって、事態は動かされていた。当然のことだとしても、壬寅会、その多数派であった市部選出の新人議員達の無力感は、そうとうなものであったと考えられる。壬寅会の津田鍛雄、林小参、宮古啓三郎は、衆議院を解散するのは国家の不幸だと、第1次桂内閣に辞職を勧告した(1902年12月29日付東京朝日新聞)。宮古と林は第8回総選挙で当選し、宮古は中正倶楽部の結成に参加していないが、林は参加している。中正倶楽部には、第1次桂内閣寄りの傾向があったが、第8回総選挙前を見れば、林も第1次桂内閣に批判的であったのだ。

註:1902年12月23日付東京朝日新聞に覚書が掲載されている。海軍拡張は国力発達に伴うことを要するのだから、これを不振に陥らせる衆議院解散の回避を、優先させるべきだという立場を採っている。坪谷善四郎『大橋新太郎伝』によれば、大橋ら壬寅会は、商工業者に負担となる海軍拡張に反対であり、地租増徴については、財政の基礎を安固にするため賛成であった。大橋は、憲政本党の武富時敏の政府反対の演説とは正反対の演説をした。そして議会に失望し、勧められるも立候補をしなかった。なお大橋は議員歳費を辞退した(以上104~105頁)。憲政本党と正反対というのは、海軍拡張に反対する背景が異なるということだろう。改進党系は自由党系よりは都市型の政党だと言われているが、農村部(地主層)の負担増に反対、壬寅会は市部(実業家層)の負担増に反対であったと、見ることができる。

 

中立に留まる選択をした中立派、つまり壬寅会には、以下のような課題があったといえる。

・政界縦断の漸進、地価修正と地租増徴という一部の民意の実現に、一役買った後の役割が不明瞭であったため、それを確定すること。新しい対立軸が浮上する可能性がなかったわけではないが、それは基本的には、実業家層(商工業者)の利益、または都市部の利益を代表するという方向性を、より明確にすることであったと言える。

・大勢力が十分にすくい上げていない利益をすくい上げる存在であるという点で、短期に多数派になるということは考えられないため、第1次桂内閣、または大政党と組んで、支持者の利害を反映させること。有利な機会となるのは、前者であれば第1次桂内閣の支持派、または同内閣の重要法案の賛成派が、過半数に迫るものの、届きはしない時、後者であれば、第1党(立憲政友会)が過半数を割る時であった。しかしそのような機会が早々には訪れなくても、将来を見据えて、地道に努力をする必要があった。議員の入れ替わりが特に激しい非政党勢力にとっては、それは高いハードルであったと言える。

この課題と向き合う際に、第3極の他の勢力、無所属とどれだけまとまれるかということも、問題であった。当時は、自らの色を薄める形で他とまとまっても、キャスティングボートを握ることができるわけでも、大政党に対抗し得る規模になれるわけでもなかった。だから、そのような道を選ばないことを、以前の中立派よりも明確にした壬寅会の路線は、上の課題をクリアするために、長期的に見れば正しいものであったと思われる。しかし壬寅会も、志向が近い者が多くいたであろう、市部選出の議員が多数派ではあったものの、具体的な政策の一致を見た上で、結成された会派ではなかった。

井上角五郎らによる会派結成が実現しなかったことは、政府寄りの中立という立場に、以前政府寄りの中立派が存在していた時期、つまり、共に衆議院の過半数を下回る2大政党の一方が、時の内閣と連携していた(連携するに至った)、第2次伊藤内閣~第2次松方内閣期のようには、魅力がなかったことを示しているように感じる。あるいは井上達か山県-桂系が、井上らによる会派と、すでに結成されていた壬寅会とが比較される事態を避けた可能性もなくはないだろう。厳正中立の壬寅会を前にした場合、井上らの会派が持つ中立的な印象は、さらに一層弱まっていたと考えられる。当時、政権は伊藤立憲政友会から山県-桂に移っていた。このような政権交代が再度起これば、双方のどちらに寄るのか、時の政権をひたすら支持するのか、ある程度ははっきりさせなければならなくなる。井上の志向は、立憲政友会所属時にも第1次桂内閣との妥協を策していたことから、後者であった。それまでの姿勢、所属党派の変遷(大同倶楽部→立憲自由党→協同倶楽部→中央交渉部→井角組→実業団体―第4回総選挙後―→憲政党―自由党系―→立憲政友会→中立倶楽部)から、山県-桂系と立憲政友会との、恒常的な協力を理想としていたのだと思われる。しかし第3次伊藤内閣以降、薩長閥中心の内閣と、政党中心の内閣が交互に誕生していたから(第2次山県内閣のみ、薩長閥と自由党系の協力に基づく内閣という性格を持っていたが)、今さら立憲政友会が、薩長閥中心の政権に入るとは考えにくく、立憲政友会を割った上で、薩長閥の衆議院における、過半数を上回る支持基盤を形成することも難しかった。井上らが事態を打開することも、やはり非常に難しかったわけである。

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