日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・連結器(③)~同志倶楽部~

第3極・連結器(③)~同志倶楽部~

同志倶楽部は壬寅会とは異なり、消極的な理由、つまり生き残りのために結成されたと言える。三四倶楽部という新民党と、本来同根でありながら候補者・当選者が国権派の議員達と入れ替わったことで、三四倶楽部とは性格の差異が大きくなった新潟進歩党との、一度袂を分かった2派の連合は、全体としては、姿勢の曖昧な中立派とならざるをえなくなった。意義がなくなった場所に、自ら身を置くしかなかったわけである。三四倶楽部が担うかに見られた新民党のポジションも、確かに、当時は有利なものではなかった。しかし立憲政友会の内部に、自らが中心となる政権を実現させるため、強硬な姿勢を採ろうとする議員達と、薩長閥寄りの議員達の双方がいる状況下、そして間もなく明確になるように(第8章1列の関係2大民党制(③④⑥)参照)、憲政本党にも、双方の勢力がある中、有利になる可能性があった。三四倶楽部の結成時、第1次桂内閣の成立時とは、環境が異なってきていたのである。より具体的に言えば、2大政党のうちの、対桂内閣強硬派が、手を組まなければならない状況に、なりつつあったということである。そうなれば三四倶楽部系は、2大政党の主流派(対桂内閣強硬派)を中心とした連合軍の、一角を占めることとなる。その連合軍の議席数が圧倒的なものとならなければ、連結器としてだけではなく、議席数の上でも、親民党は貴重な存在となり得た。連結器という役割について言えば、第6章第3極1党優位の傾向(⑱)で見たように、三四倶楽部は憲政本党と比較的近いだけでなく、立憲政友会と協力することも、不可能ではなかった。立憲政友会は元老を党首とする政党であったから、野党的の色彩が強いことが多かった改進党系(憲政本党)と深く結び付くのは難しかった。だからこそ、山県系主導の内閣に不満を持つ勢力を結びつけることは、2大政党以外の勢力の、重要な役割となり得たのだ。しかし三四倶楽部系は、おそらくその関心が内に向いていたため(やはり第6章第3極1党優位の傾向(⑱)で見たように、2大民党の連携強化よりも、憲政本党との再統一などに関心が向いていた。『補論』⑮も参照)、機会を生かすことができず、また自らに有利な状況となることを待てず、消滅した。後継の同志倶楽部も同様であった。結局、同志倶楽部の中心となった新潟進歩党は、第8章⑤で見るように、憲政本党への復党の是非について分裂した。そして議員のほとんどは、中立会派の交友倶楽部の結成に参加した。そしてその後、議員を続けていた大竹貫一と萩野左門は、交友倶楽部より一足先に結成されていた、立憲政友会の離党者等による、同志研究会の系譜に移った。同志倶楽部が後にした左の極には、その同志研究会が立った。

 

 

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