日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(②)~壬寅会の挫折と中立派の右傾化~

第3極・実業派の動き(②)~壬寅会の挫折と中立派の右傾化~

1903年3月19日付の萬朝報によれば、大河内輝武(第7回総選挙で初当選して以来無所属であった)、高梨哲四郎(山下倶楽部、憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、中立倶楽部に属したが、当時は無所属)、桑原政(元山下倶楽部、当時壬寅会)はしばしば首相官邸に行き、そこで御用党の結成を依頼され、50議席くらいの団体を結成しようと、中立議員の「骨軟かき部分へ向け」勧誘状を贈った。記事によれば、勧誘状の主意は海軍拡張、そのための財源としての地租増徴の実現であったという。この動きは、この3名が参加している、5月6日の中正倶楽部の結成につながっていると考えられる。注目すべきは、25名で結成された中正倶楽部に、壬寅会の当選者15名のうち、8名が参加し、2名が結成後に加わっていることである(5月9日、11日に同派に加わった計5名のうち、2名が壬寅会の出身であった)。なお記事には、賛成者中に田口卯吉がいると伝えられているとあるが、彼は参加していない。田口卯吉と島田三郎は地租増徴に賛成であり、その継続にも賛成であった(『帝國議會衆議院委員會議録』明治篇二五73頁に委員会における賛否があり、田口卯吉、島田三郎が安達謙蔵-帝国党-、三井忠蔵-中正倶楽部、後に甲辰倶楽部、大同倶楽部-と同じく賛成、他の委員達が反対であったことが分かる。中正倶楽部のもう1人の委員であった林小参-後に甲辰倶楽部、立憲政友会-、自由党に参加する政友倶楽部の藻寄鉄五郎-後に大同倶楽部、立憲政友会-、自由党に参加する立憲政友会の委員等が反対していた点も興味深い。4月21日付の萬朝報によれば、中正倶楽部を結成することとなる議員達には、結局政友倶楽部を結成した、立憲政友会を除名された議員達を含めた会派を、結成しようとする動きもあった。3月19日付の萬朝報は、御用党が結成される見通しだと報じたが、その1週間ほど後に結成された中正倶楽部の参加者は、その際に名前が挙げられた面々とおおむね一致している。4月23日付の読売新聞は、壬寅会が、「一揆黨の自黨と同臭味の性質なるを計」ったとしている。一揆黨(大阪に集まった、立憲政友会内の不平派。本章優位政党の分裂(④、補足)参照)は、一つの統一性の高いグループではなく、薩長閥支配に反発する議員、薩長閥政府(山県-桂系)に寄ろうとする議員がいたのだが、記事のタイトルが「壬寅會の身變り」であることから、第1次桂内閣寄りとなっていった壬寅会系が、同様であった立憲政友会の議員達と、後者が離党した上で合流することで、自らの勢力を拡大しようとしていたのだと、考えることができる。これは第9回総選挙後、甲辰倶楽部の結成によって、部分的に実現する。ただし議席数が大きく増えるということはなかった。

以上から、中正倶楽部には、前身の壬寅会と比べて、山県-桂系・第1次桂内閣寄りという面が強かったのだと考えられる。また、憲政本党に近い面もあったとはいえ、立憲政友会とは相容れなかったと考えられる同志倶楽部も存続したから、互いに差異はあるものの、中立的な立場を採る会派は3つとなった。ただし政友倶楽部は、立憲政友会から離党者が続出していた6月に、早くも解散した。中正倶楽部不参加の壬寅会系5名のうち、1名が立憲政友会、1名が同志倶楽部に参加し、3名は無所属となった(『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には数のみが記されており、壬寅会の当選者の氏名は、中正倶楽部の結成に参加した議員しか分からない。よって1903年3月3日、4日付の読売新聞で、他の当選者の氏名を確認した)。同志倶楽部に参加したのは、新潟市選出の鈴木長蔵である。壬寅会は、中正倶楽部の結成に参加したものの、脱落者が出たのだと言うべきだろう。壬寅会は第8回総選挙の前に、すでに不統一の傾向を見せていた。同派の地租増徴反対の決議(第7章第3極(③④⑤)参照)が、出席者のみによるものであったということが報じられている(1902年12月22日付東京朝日新聞)。出席者と欠席者には、志向の違いがあったと考えられるのだ。欠席者は地租増徴継続を支持していたか(同派の議員の多くが市部の選出であることを考えれば、おかしいとは言えない)、第1次桂内閣と対立することに否定的であったのだろう。亀岡徳太郎が壬寅会に入ったということも、同派に、地租増徴継続による海軍拡張に反対でない議員がいたことを示している。亀岡が、自身らとの協議がないまま、大阪支部に少数の者が集まって海軍拡張、地租増徴への反対を決議し、本部に提出したことに反発して、立憲政友会していた(1902年12月3日付東京朝日新聞)からだ。

しかし、この差異がそのまま、第8回総選挙における当選者達を分けたとは考えにくい。第7章の⑤と第3極(③④⑤)で見た通り、壬寅会には、第1次桂内閣に地租増徴継続を一度撤回させようとした議員達もいた。その中には、厳正中立の立場から、そうすべきだと考える議員達がいたのであろうが、同派は結局、地租増徴継続反対を決議した。地租増徴継続反対派、第1次桂内閣に批判的な議員の多くが、第8回総選挙に立候補しなかったか、再選されなかったのだとしても、中正倶楽部の結成に参加した議員の割合は、あまりに大きい。だから厳正中立路線に限界を感じ、切崩しも受ける中で、時の政権に近い会派への参加に舵を切ろうとする議員が、増えたのだと考えるのが自然だ。そのような機会に乗じて、桑原政が、内部から壬寅会を動かした可能性もある。限界を感じたからこそ、後述する通り、より多くの議員を集めることに熱心であったことも、不思議ではない。ただし、中正倶楽部結成の前に、壬寅会の多くの議員達は、元来の第1次桂内閣寄りの無所属議員達と融合し始めており、そのどちらが、あるいは双方共が、多くの議員を集めることに熱心であったのかということは、特定できない。立憲政友会に参加した1名(岩本信兵衛)も、厳正中立に限界を感じたか、そもそも立憲政友会に近かったのだろう。なお、中正倶楽部には、当然参加するはずの井上角五郎が、参加していない。井上だけのことであるし、この当時になって、なるべく多くの議員を集めるために、第1次桂内閣寄りのカラーを薄めようとしたとは考えにくく、理由は分からない。広島県内選出議員の離党と関係あるのだろうか。

中正倶楽部結成の前日に当たる5月5日付の読売新聞によれば、壬寅会等、第17回帝国議会の中立議員20余名が、中立議員倶楽部を組織して規約を起草、中立議員を勧誘していたにもかかわらず、これを解散し、さらに新団体として、同志を糾合することにした。記事の通りであれば、中立派の議員達は、より多くの議員を集めることを重視したのだ。20議席程度では少なすぎたということである。5月1日付の読売新聞は、大阪一揆党(本章優位政党の分裂(④)参照)に混入して密密運動を試みた政府党の分子が、団体結成を決定したとして、その規約、21名分の加入者氏名を記している。また、名称は未定だとしている。これが、上の5月5日付の記事が中立議員倶楽部としているものだと思われる。規約には、衆議院中の不偏不党の同志者を以て組織することが第1条に掲げられている。加入者名としては、中正倶楽部に参加することとなる議員のうち、20名(うち壬寅会系8名)と、政友倶楽部の結成に参加する久保伊一郎が挙げられている。確かに、中正倶楽部結成時の議席は25と、21よりも増え、さらに32議席にまで拡大した。なお、同日付の東京朝日新聞は、これを大河内が首唱した動きだとしている。5月2日付の東京朝日新聞によると、中正倶楽部を結成する大河内と桑原が、「大阪集會」の中立議員に、趣意書を以て「團結の相談」をしたらしい。これに応じたのが、上の21名であったのだという。趣意書の内容は、簡単にまとめるならば、国家を忘れる政党にも、憲政を誤用することがなくはない政府にも与しない、独立、中立の存在として国家に報い、国運の拡張を期する、というものである。壬寅会の厳正中立志向が受け継がれているようにも見えるが、薩長閥政府寄りの姿勢が、少し表れているようにも見える。中正倶楽部の全員が、山県-桂系に寄っていたとまでは言えないし、結成時と、立憲政友会の分裂後で、中正倶楽部が多少なりとも姿勢を変えたという可能性も、ある。

5月1日付の萬朝報は、大阪に集まり「軟化の恊議」をしていた雨森菊太郎、服部小十郎、鈴木総兵衛、佐竹作太郎、三井忠蔵、亀岡徳太郎、吉田顕三、木本源吉、矢島浦太郎、大河内輝剛、星野鉄太郎、水登勇太郎、桑原政、林小参、木内信、堀江覚治、佐藤虎次郎、大道寺忠七、両角彦六が「お味方倶樂部」の発会を決定したとしている。これは同日付の読売新聞が報じた中立団体の加盟者と比べ、高梨哲四郎(無所属)、木本源吉(壬寅会)、久保伊一郎(無所属で当選し、中正倶楽部ではなく政友倶楽部に参加)の名が欠けているだけである。ここで挙げられている議員は、5月6日の中正倶楽部の結成に参加する25名のうちの18名と、結成後に加盟した亀岡だ。この19名の中には、中正倶楽部結成に参加する壬寅会議員8名が、全員含まれている(他に亀岡も壬寅会出身)。もちろん、5月5日付の読売新聞が中立議員倶楽部としたものとも、同一の勢力だと言える。「中立議員倶楽部」が(中正倶楽部が結成前から)、壬寅会系の多くと、第1次桂内閣寄りの無所属議員による勢力であったことは、やはり確かだ。

野党というやや不利な立場になっても、優位政党であり続けようとする、つまり政界の中央で影響力を維持しようとする立憲政友会と、厳正な中立であろうとする壬寅会が、山県-桂系主導の内閣に揺さぶられ、分化する傾向を見せていたことは確かだ。そして俯瞰すれば、立憲政友会に隠れた存在でありながら(やはり政界の中央にあるという点で-第6章第3極野党に対する懐柔、切崩し(⑩⑬⑱)参照-)、それまでと異なる存在意義を得ようとしていた中立実業派は、しかし堪え切れず、政府寄りの中立派(中正倶楽部)に戻ったと言える。

興味深いのは、中正倶楽部結成の前日、5月5日に中立議員が集まっていたことだ。次の議員達であるが、田口が規約を制定して倶楽部を結成しようと発議したのに対し、高野が反対し、有志者が不偏不党等を内容とする規約を持った正中倶楽部を組織し、桑原、吉田顕三(中正倶楽部に参加する)、木本、佐藤、服部が幹事に就いたのだという(1903年5月7日付東京朝日新聞、読売新聞。以下の分類と()内は筆者)。

・立憲政友会に所属していた議員:三浦盛徳

・中正倶楽部に参加する議員:天野若円、木内信、木本源吉、桑原政、佐竹作太郎、佐藤虎次郎、下村善右衛門、鈴木総兵衛、大道寺忠七、高梨哲四郎、能川登、林小参、古屋善造(記事では古谷善作)、星野鉄太郎、服部小十郎、堀江覚治、水登雄太郎、三井忠蔵、森茂生、両角(記事では諸角)彦六、矢島浦太郎、山根正次

・政友倶楽部に参加する議員:丸山名政(同志研究会に参加)、嶺山(記事では峰山)時善(自由党に参加)

・双方に参加しない議員:臼井哲夫、高野孟矩(自由党に参加)、田口卯吉、橋本雄造、三輪信次郎(交友倶楽部に参加)

 

名称と幹事に就いた議員を見ると、正中倶楽部とは、中正倶楽部のこと(以後の報道で中正倶楽部とされているもの)だと考えられる。ではなぜ、組織化を提唱した田口が入っていないのだろうか。政治姿勢の違いなら、すでに明らかになっていたと思われるし、筆者には分からない。高野は5日後、中立議員の晩餐会を開き、20名以上の議員を集めた。この際、団体組織については異論が多かったためにまとまらず、衆議院における委員選定等のために高野、臼井が幹事になったのだという(1903年5月12日付東京朝日新聞)。記事の内容からすれば、中正倶楽部等に参加しなかった、無所属議員が集まったのだということも考えられる。無所属議員は当時まだ38名もいたから、あり得ることではある。この、一つの明確な勢力とはならなかった会合の性格もよく分からない。しかし中立的なものであったと捉えても、誤りだとは言えないだろう。高野は渡辺国武を担ぐ勢力を作ろうとしていたのかも知れないが。

 

 

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