日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き(②)~市部の田口系~

第3極・実業派の動き(②)~市部の田口系~

1903年5月11日付の読売新聞は、高野孟矩、田口卯吉、島田三郎、三輪信次郎、安藤謙介、臼井哲夫、岡田治衛武、橋本雄造らが、中立議員中、会派に加わらなかった人々のための懇親会を開き、議会対策を協議すると報じた。しかし、これが会派に発展することはなかった。高野、臼井、岡田以外の5名は、市部の選挙区から選出されていた議員であり、彼らの動きは、第9回総選挙後の市部選出議員による会派、有志会の結成へと、つながるものであったと言える。記事で名が挙げられた8名の中で、有志会に参加しているのは、田口、島田、三輪の3名のみである。しかしこの3名以外は、臼井と岡田しか第9回総選挙に当選していないから、そう言っても大げさではないと考える(臼井と岡田は、有志会の一部も参加した大同倶楽部の結成に、無所属から参加する)。また田口、島田、臼井は、第6回総選挙後の中立倶楽部の結成に参加しており、同派参加・壬寅会不参加者の一部による勢力という面も、この動きにはあったと言える。彼らの動きは、確かに会派の結成にはつながらなかった。しかし、第1次桂内閣寄りの中立以外にも、田口、島田らの勢力が、市部中心のものとして、不明瞭ながらも存在し続けていたことは確かだ。島田、三輪は後に、同志研究会の系譜、つまり新民党に属すし、田口も新民党に属していたことがあった(第4回総選挙後の同志会)。このこと、そして第6回総選挙後の田口、島田の姿勢(第6章第3極(⑦⑧⑨)等ど参照)を見た場合、田口、島田らの勢力が、新民党的な性質も持つ中立実業派、厳正中立とし得るような勢力であったと、想像させられる。彼らについてはまた、第9章で述べる。田口の政策を確認しておくと、小選挙区制(市部の独立には当然賛成していた)、自由貿易、増税については地租増徴継続優先であった(他の増税に否定的。田口は衆議院における状況について、地租増徴継続に反対し、地租に関係しないことについては政府に盲従していると、批判していた)。田口は消極財政志向であったが、当時のロシアの姿勢に反発し、海軍拡張を積極的に支持していた(当時の田口の姿勢については、東京経済雑誌―『田口卯吉全集』―で確かめることができるが、田口親『田口卯吉』280~292頁にまとめられている)。

 

 

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