日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(②)~政友倶楽部~

第3極(②)~政友倶楽部~

政友倶楽部は、立憲政友会を除名された議員達(8名のうち第8回総選挙に当選していない3名を除く5名)が、無所属議員のうちの8名と結成した会派である。除名された議員達は、第1次桂内閣との関係を疑われていたから、山県-桂系に切り崩された可能性が高い。それは、彼ら5名のうち3名が、後に、吏党系の大同倶楽部等に属すことからも窺える(他の2名、この3名のうちの1名は、後に立憲政友会に復党)。立憲政友会を除名されたのではない参加者のうち、以前に衆議院議員として政党、会派に属したことがあったのは、次の3名である(選挙区、当時までの所属会派の変遷も付記した)。和泉は対外強硬派として、立憲政友会の外交政策に不満を持っていたようだ(註1)。

和泉邦彦 鹿児島県郡部 憲政党、憲政本党、議員同志倶楽部、立憲政友会

川越進  宮崎県郡部  立憲自由党、協同倶楽部、巴倶楽部、独立倶楽部(第2回総選挙後)、溜池倶楽部、芝集会所、政務調査所、立憲革新党、議員倶楽部、公同会

丸山名政 東京市選出  立憲改進党

*丸山は5月11日に無所属となり、12月に同志研究会の結成に参加。

 

3名中2名が改進党系の出身だが、他に明確な傾向はない。政友倶楽部全体を見ても、市部選出が東京市の丸山だけであったという以外に、これといった特徴を見出すことはできない。それでもここで挙げたメンバーの中で、状況が分かるいくつかのケースについて、参考までに記しておきたい。1903年1月7日付の東京朝日新聞によれば、丸山は、彼を推す魚河岸の有志者に、彼を大橋の代わりに推薦する都合上、政党との関係を絶つことを申し込まれたのだという。大橋とは、壬寅会の前衆議院議員(当時は衆議院の解散後であった)の大橋新太郎であると思われる(大橋は第8回総選挙には立候補していないようだ)。そして丸山は、1903年1月28日に憲政本党を離党した(1903年1月29日付東京朝日新聞)。だが、1903年2月1日付の同紙は、東京における候補者調整について、立憲政友会が憲政本党に、候補者を前衆議院議員等に絞ることを要請し、憲政本党がそれを容れて絞った結果、丸山を候補とすることで、自らの勢力範囲を侵されると大石熊吉が反対し、結局候補となれなかった丸山が、離党したとする。大石熊吉は第7回総選挙において、東京市で、憲政本党の候補として初当選していた。考えてみれば、双方は両立しえない話ではない。丸山は、第2回総選挙で当選しただけであったから、当時有力候補ではあったものの、立場が弱かったのだ。なお、川越進は、「御用候補」として立候補したために、立憲政友会を除名された(註2)。

註1:1900年10月26日付、1902年7月6日付東京朝日新聞。前者は、長谷場純孝が国民同盟会の創立に尽力しながら、立憲政友会の拘束的決議によって変心したことが、同郷の人士の感情を損なっていたこと、立憲政友会の和泉が率先して脱会届を提出したが、それがなお長谷場の手中にあることなどを報じている。後者は、鹿児島の立憲政友会が分裂し、和泉が離党したとしている。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には和泉の離党に関する記述はなく、第7回総選挙に無所属で当選したと捉えている。

註2:1904年2月14日付読売新聞。宮崎県には日州倶楽部という全県一致の勢力が形成されていた。川越は宮崎県内選出の衆議院議員達と共に、2大民党による憲政党の結成に参加し、自由党系による憲政党、立憲政友会の結成にも参加していた『宮崎県史』通史編 近・現代1第3章第2節、第4章第1節)。

 

 

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