2.キーワードで考える日本政党史

第3極・実業派の動き(①②)~中立派と市部、山県系~

第8回総選挙後の第3極は、分化の程度を増した。当時の中立派には、少なくとも5つの勢力があった。それらを挙げると、壬寅会、壬寅会に参加できなかった中立倶楽部出身者を含む第1次桂内閣寄りの議員達、第8回総選挙前後に、立憲政友会を除名された議員達、ほぼ新潟進歩党系のみとなった、同志倶楽部系、そしてグループと呼べるか議論の余地はあるが、まとまる動きを見せた田口卯吉、島田三郎らの一派である。最初の2つの多くが中正倶楽部を、立憲政友会を除名された議員達が、政友倶楽部を結成した。また、政友倶楽部の結成と同じ5月8日、同志倶楽部が再結成された。田口も島田も、第7回総選挙前には中立倶楽部に属しており、同志倶楽部も憲政本党から分かれた勢力であったと言えるから、大雑把に見れば中立諸派には、出身勢力ごとに分立していたという面もあったといえる(中正倶楽部は、中立倶楽部を引き継ぐもう一つの勢力-天野若円と高梨哲四郎が共通-、かつ壬寅会を継ぐ勢力であったということになる)。

第8回総選挙後の特別会(第18回帝国議会)の会期終了日、1903年6月4日の各会派、無所属の議席数を見てみよう。()内には、市部選出議員の数を記した(北海道の札幌区、函館区、根室区は市部に数えなかった)。中正倶楽部が、市部選出議員中心の会派という壬寅会の性格を、引き継いでいることが分かる。

立憲政友会   168(26)

憲政本党     84( 9)

中正倶楽部    31(20)

帝国党      17( 2)

政友倶楽部    13( 0)

同志倶楽部     8( 1)

無所属      54(15)

計(欠員を除く)375(73)

市部選出の議員が多いという点ではもちろん(全議席の約5分の1が市部であるところ、中正倶楽部は約3分の2)、実業家の多さでも、中正倶楽部は際立っていた(『中小会派の議員一覧』第8回総選挙参照)。つまり同派は、独自の役割を担い得る勢力であったはずだ。しかし筆者が中立実業派とした同派は、一般的中立とした政友倶楽部と同じく、政府寄りの中立であった。中立派が薩長閥政府寄りであることは珍しくなかったが、その中で明確に山県系(山県-桂系)に近いというのは、初めてであったと言える。山県-桂系に近い勢力が市部の少なくない部分を占めたことは確かだが、政友会内閣が成立するなどしても、それが維持されるのかは、まだ分からなかったと言える。そもそも山県-桂系は、政党のように、市部に直接根を張るつもりは、やはりなかった。

帝国党、中正倶楽部、政友倶楽部が第1次桂内閣支持、または同内閣寄り、同志倶楽部が民党(当時は憲政本党。ただし立憲政友会も、自由党系の比重の高さ、憲政本党と連携しようとしたことから、民党とし得る)寄りという特徴を見出すことができる。しかし同志倶楽部の大部分を占めた新潟進歩党において、第7回総選挙後に対外強硬的な国権派の比重が増えていたこと、憲政本党が、対外強硬的でない立憲政友会と、自らの対外強硬的な主張を封印する形で共闘したことから、同志倶楽部を2大政党(2大民党)の陣営に数えることは、できない。