日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
優位政党の分裂・実業派の動き・野党に対する懐柔、切崩し(④)~大都市における立憲政友会の動揺~

優位政党の分裂・実業派の動き・野党に対する懐柔、切崩し(④)~大都市における立憲政友会の動揺~

当時、立憲政友会には大阪市選出の3名、堺市選出の1名、大阪府郡部選出の4名の衆議院議員がいた。このうち大阪市選出の沢田佐助と横田虎彦、郡部選出の森秀次と植場平は、実際に12月6日から11日にかけて離党した。憲政本党との提携に反対であったためらしい(註)。この12月11日は衆議院解散の当日であり、この4名のうち植場以外の3名は、無所属のまま第9回総選挙を迎え、全員が当選している。植場も、立憲政友会の候補として、当選したようだ(東京朝日新聞)。彼らの、その後の所属政党、会派は次の通りである。

沢田佐助 甲辰倶楽部、有志会、立憲政友会

横田虎彦 甲辰倶楽部、大同倶楽部

森秀次  甲辰倶楽部、大同倶楽部、中央倶楽部、憲政会

植場平  立憲政友会、政友本党、立憲民政党

 

4名中3名が薩長閥寄りの中立派であった甲辰倶楽部に所属すること、そのうちの2名がさらに吏党系と合流することからも、大阪一揆への山県-桂系の関与が窺われる。第8回総選挙前の1902年12月11日、大阪市選出の衆議院議員亀岡徳太郎は、立憲政友会を離党した。自身らとの協議がないまま、大阪支部に少数の者が集まって、海軍拡張と地租増徴への反対を決議し、本部に提出したことに反発したためた(1902年12月3日付東京朝日新聞)。亀岡は立憲政友会を離党した日に壬寅会に加わった。これは興味深い事象である。大阪の立憲政友会は、地租増徴の継続による海軍拡張について賛否が割れており、反対が多かったようだ。第6回総選挙までの大阪府の市部の選挙区は、第1区から3区であった。そして第6回総選挙において、1区で大三輪長兵衛(無所属―元山下倶楽部、後に立憲政友会―)、2区で伊藤徳三(総選挙後憲政党―自由党系―に参加)、3区で前川槇造(同じく日吉倶楽部に参加)が当選した。大三輪と前川は山下倶楽部の出身であった。そして、大三輪と伊藤が立憲政友会に参加した(大三輪は結成後に加盟)。つまり、自由党系と中立実業派が合流したのだといえる。ここに山県-桂系が手を突っ込んだのである。1901年6月9日付の読売新聞は、京都付近の実業代議士が、常に政府に寄ることを「利とする」とし、中辰之助が立憲政友会を脱して、表面上中立党として、桂内閣と通じようと図っていることなどを伝えている。中は大阪府内選出、山下倶楽部出身の実業家で、分裂後の自由党系による憲政党、立憲政友会に属していた。当時は衆議院議員ではなかったが、後に第11回総選挙では実際に、吏党系の中央倶楽部から当選している(ただし、いつ吏党系に移ったか、確かめていない。第11回総選挙が行われたのは、政友会内閣期である)。

第8回総選挙前、1903年2月12日付の読売新聞は、伊藤の勧誘を受けて立憲政友会に参加した名古屋市の、鈴木総兵衛、服部小十郎ら15名が離党したことを報じている。鈴木と服部の2人のうち、前職の衆議院議員(衆議院解散後であった)は服部だけであった。服部は当選1回、鈴木はかつて山下倶楽部、日吉倶楽部に所属していた。記事を見る限り、離党の要因は公認問題であった。定数が2名であった名古屋市において、立憲政友会は旧憲政党(自由党)系と実業派を1名ずつ擁立することとしており、実業派の枠が服部に決まったことに不満を持った鈴木が離党を決め、服部が同調し、彼らの離党が、名古屋市の候補者を実業派が独占するためのものであったいうのだ。記事は、名古屋市の実業派と桂との関係を指摘し、この動きを、政府の軟化政略に乗せられた動きだとしている。そして、第8回総選挙で共に当選し、実業派による独占を果たした鈴木と服部は、第1次桂内閣寄りの中立会派、中正倶楽部の結成に参加した。時がさかのぼるが、1901年6月4日付の読売新聞は、桂がすでに立憲政友会を敵とする決心をしたが、衆議院で多数を得るには憲政本党、帝国党、中立では足りないことから、立憲政友会を分裂させるため、国民協会出身の早川龍介を動かし、愛知県選出議員を切り崩そうとしているのだとする(この当時は、山県-桂系と憲政本党が組む可能性が、低い中でも最も高かった時だと言える-第6章⑰参照-)。当時、愛知県選出の全衆議院議員のうち、憲政本党に属していた加藤六蔵、日吉倶楽部系で、中立倶楽部の結成に参加する村瀬庫次を除く9名が、立憲政友会に属していた。9名の内訳は、自由党系による憲政党の出身が5名(長坂重孝、後藤文一郎、自由党系の憲政党を離党した堀尾茂助、浦野錠平、森東一郎)、国民協会出身が1名(早川龍介)、日吉倶楽部出身が3名(鈴木摠兵衛、井上信八、西川宇吉郎)であった。つまり愛知県では自由党系、吏党系、中立実業派の多くが立憲政友会に集まって、圧倒的な存在になったのだが、そこが山県-桂系に狙われたのであった。この時、立憲政友会を脱した議員はいなかったが、第8回総選挙前(1903年2月)、名古屋市で立憲政友会の分裂が起こったのである(早川は、第8回総選挙後の1903年7月に離党し、後に復党するも、立憲同志会結成の際に、また切り崩された)。

大阪の例も名古屋の例も、立憲政友会に参加した中立実業派が、山県-桂系に切り崩されたものである。山県-桂系は、市部選出議員が多かった壬寅会の大部分だけでなく、2つの大都市で、立憲政友会を切り崩すことに成功したのだ。1901年6月17日(第1次桂内閣成立の約2週間後)、同党会員(党員)の東京市における行動が市政に忠実でないとして、東京府深川区の実業家達は脱会を決議した(1901年6月19日付東京朝日新聞)。その背景については踏み込まないが、ここにも同党における市部、実業家の基盤の動揺が見られる。

この大都市での動揺は、立憲政友会の自由党への「先祖返り」(第6章1列の関係(④⑦⑫⑬他)参照)と、一定の関係のある事象でもある。しかし、先祖返りの最大の要因は、自由党系(立憲政友会を含む)そのものにあり、議席数で見る分にも、これらの切崩しは、決して大きな成果ではなかった。衆議院における劣勢を改めるには、さらなる切崩し、または2大政党のどちらか丸ごとと組むような方針転換が不可欠であった。山県-桂系が市部の議員を比較的多くたことは、薩長閥と民党の対立に、商工業党と農業党の対立(第1章帝政ドイツとの差異(⑩)第2章帝政ドイツとの差異(④)第5章(準)与党の不振実業派の動き(⑨)参照)という面があることを、思い出させる。この面では山県-桂系の動きは、2大民党に対抗しようとした、伊藤の2度目の新党構想に近いところもある。しかし、自らに寄った議員達や自らの支持派を政党にまとめようとすることに、山県-桂系は相変わらず消極的であった(もちろん政党化を嫌う議員も、壬寅会系などには少なくなかったと考えられる)。

註:北崎豊二「代議士時代の森秀次」20頁。北崎氏は「大浦のはたらきかけによると思われるが、表向きの脱会理由は、議会開会直前の政友会と憲政本党との提携を否認し、反対運動をしているところに奉答文事件がおこり、これを不穏当であるとしてであったと、新聞は報じている。」としている。ただし、新聞の名は示されておらず、筆者は確認していない。「立憲政友会大阪支部予選候補者森秀次君政見一班」を読むと、森は地価修正派であった。地価修正安定に反対してきた改進党系とは、相容れなかったのだと言える。また森は、政党員は政党の方針、つまり立憲政友会の場合は、伊藤総裁が定めた党の方針に従うべきだとし、第1次桂内閣の行財政整理について、目標を達せられるかは未知だとしつつ、1902年のことではあるが、大いに期待をしている。

 

 

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