2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係・優位政党の分裂(④、補足)~立憲政友会の分裂~

立憲政友会は、第1次桂内閣(山県-桂系)に切り崩された議員全員を、党外に放出するわけにはいかなかった。ウミを出すという考え方もあるが、それは現実主義の自由党系が選ぶ道ではなかった。立憲政友会はむしろ、第1次桂内閣と妥協した。しかし、政界の中央でキャスティングボートを握り、自らの価値を高めるのも自由党系である。憲政本党が出した上奏案には反対、決議案には賛成という行動には、それがよく現れている。結果的にそうなっただけだとは言っても、絶妙なバランスであった。内閣の行財政整理が不十分であることを見た立憲政友会は、野党の立場を採った(第1次桂内閣の行財政整理は結局、鉄道建設改良費繰り延べ等、純粋な行政整理でないものが中心となった。鉄道改良を犠牲にすることは、積極財政の維持のために行政整理を行うという、立憲政友会の志向とは異なるものであった―伊藤之雄『立憲国家と日露戦争』166頁―)。第1次桂内閣において行財政整理を進めていた奥田義人は、1902年9月、反発を受けて法制局長官を辞任していた。これは、内閣の財政整理の方針が徹底されていなかったことを示す事象であり、2大政党に、内閣と対立するための大義を与えた。奥田は伊藤系の官僚であり、法制局長官には、第4次伊藤内閣期にすでに就いていた。奥田が明確に反桂の動きをした背景には、伊藤が桂総理に不満を抱いていたこともあると考えられる。奥田は辞職後、横浜市と郷里の鳥取県で第8回総選挙に立候補し(当時は立候補制ではなかったため可能であり、その場合は自らが当選している選挙区の1つを選び、他については辞退することとなる)、双方で当選した。横浜市では加藤高明の「景物」として担がれた面があった(1903年3月4日付読売新聞、岡田朋治『嗚呼奥田博士』176頁)が、加藤と2人区の選挙区を独占することができず(加藤が落選し、加藤、奥田と同じく無所属の島田三郎が当選)、当選を辞退、鳥取県郡部選出の衆議院議員となった。こうして当選した加藤は、2大政党の連携に動き、立憲政友会離党者による新民党であった同志研究会に、奥田と共に参加したのだから、分裂劇の一部さえ、自由党系と伊藤系の連合としての立憲政友会、民党連携に舵を切った立憲政友会の、自作自演のように見えてくる。もちろんそんなことはないだろうが、立憲政友会は、他党を引き離す優位政党の地位と、求心力を維持しさえすれば、自らにとって本来良くない変化からも、自らの中央の座を守りながら選び取ることができる、有利な選択肢を見出すことができた。

立憲政友会の分裂には、最左派と最右派の離党(桂・伊藤合意反対者、党内民主化を唱える者達の離党、伊藤という薩長閥の大物が率いる政党だから加わっていたという者達の離党)、合流前の勢力への分裂(愛国公党→自由党土佐派の離党、伊藤寄りの離党)という面もある。しかし単純な分裂ではなかったし、離党者達は党全体から見れば少数派であった(一体的でもなかった)から、分裂後の残留派は、従来通り、薩長閥に接近する選択肢と、憲政本党との民党共闘という選択肢の、2つを使い分け、有利な立場を維持することができた。この柔軟性の維持は、同党が分裂しても、再び復党する者が多い理由でもある。最左派と再右派が離れれれば、柔軟さは増して当たり前であるわけだが、そのような離党者も含めて、戻って来るのは、大政党の衆議院議員であることの必要性を実感した者達であるので、分裂だけでなく復党の動きによっても、立憲政友会(自由党系)のまとまりや影響力が、弱まることはなかった。

明治期の自由党系には、薩長閥という「優位政党」に挑戦する野党第1党という性格も、あるにはあった。しかし、衆議院で他の党派を引き離していることが多く、この当時は伊藤系との合流も果たしていたから、2つの選択肢(権力への接近か徹底抗戦か)を巡って大分裂するということはなかった。山県-桂系の総理大臣候補が山県から桂になったように、立憲政友会(自由党系・伊藤系)の総理大臣候補も、伊藤から西園寺に世代交代した(ただし双方とも、完全に定着したとまでは言えない)。伊藤、山県の元老としての影響力は残ったが、政治は桂太郎らと、西園寺総裁を担ぐ立憲政友会の原達による、駆け引きの時代に入った。立憲政友会は、国民協会のように、党首を薩長閥政府側に引っこ抜かれた(連れ戻された)のだと言えるが、国民協会のように迷走することはなく、桂・伊藤合意の前までのように、野党として第1次桂内閣と対峙しつつ、薩長閥(山県-桂系)に寄ることが有利な場合はそうするという、自由党系以来の姿勢を維持したのである。