2.キーワードで考える日本政党史

1列の関係・政界縦断(④)~縦断型政党の課題~

『林有造伝』は、伊藤を政党人化させることを先決問題として、林が片岡の離党を引き留めたとしている(401頁)。当時、党首選などというものはなかったし、党首就任の経緯、党の他の幹部、要人との関係によっては、それが独裁的な地位となっても、そこまでおかしなことではなかったように思われる(かつての自由党には、党首―板垣―ほどの人気やカリスマ性はなくても、党内や政界における格、あるいは実力では、引けを取らない要人がいた。かつての進歩党は、立憲改進党出身者が主流派ではあっても、他の勢力に気を遣う必要があった。また双方とも、薩長閥など、外部から党首を迎える可能性が排除されていなかった。それに対して立憲政友会は、自由党系が薩長閥の最大の大物を、頼んで党首に迎えたも同然であり、事実上同格の「替え」は存在しなかった)。問題は、党首(総裁)が薩長閥の一員であり続けるのか、つまり、自由党系が薩長閥の下部組織のようなものに落ち着くのか、党首が旧自由党系の軍門に下るとまでは言えなくても、薩長閥の多くが否定的に見る、「政党人」になるのか、ということであった。後の、改進党系の流れの半分を汲む立憲同志会もそうだが、薩長閥の要人が民党の系譜を取り込んだのか、その逆であったのかは、この、確認することが困難な一点にかかっている。立憲政友会の場合も、立憲同志会の場合も、指導者であった薩長閥の要人(前者は伊藤、後者は桂)が党を離れたことで(桂の場合は死去)、それぞれ自由党、立憲改進党の延長線上にある政党という評価を、広く受けるようになったのではないだろうか。長州閥の伊藤が、衆議院第1党の専制的な党首として、薩長閥政府の要人と度々会談をしているのでは、議院内閣制へ進んでいるというよりも、見かけだけの政党内閣への道でごまかされていると思われても仕方がない。だから土佐派は、この問題意識を共有することができた尾崎行雄や小川平吉のような、より早期の離党者とも連携するべきであったと、筆者は考える。伊藤博文には確かに、政権獲得などの党利党略よりも、国家を第一に考えたという面がある。しかし、政党とは、一部の人々の利害を代弁するものでもある(大政党ならば、比較的多くの人々を代弁しているという面がある)。だからこそ他の政党と競い合い、一定期間のうちに政権交代が起こるべきなのである。伊藤が政党を率いるのであれば、国家≒薩長閥という状況は、いずれ改めるべきものであると、はっきり認めるべきであった。それが不十分であったから、伊藤は立憲政友会を去ったのだと言える。同党が全国民(少なくとも全有権者)を代表して、だいたいにおいて正しい判断をし続ける薩長閥政府を支え、他の党派もそれに協力し、その中で利益誘導を試み。時には政権の誤りを指摘するというのは、一党独裁の国よりはましであっても、健全な議会政治とは言い難い。薩長閥(山県-桂系)と協力して、度々政権を担う政党となった、後の立憲政友会も、この問題と無縁ではない。それも健全な議会政治への一過程であったと好意的に見るには、日本の現状はあまりに不十分である。