2.キーワードで考える日本政党史

野党再編(④⑤)~憲政本党と三四倶楽部に関して~

第7回総選挙前から第8回総選挙後にかけての状況を、少しさかのぼって確認する。第4次伊藤内閣期に増税案に賛成した憲政本党は、自らが、立憲政友会よりも第1次桂内閣に近い勢力になれると見込んで、内閣に接近しようとした。大石正巳は増租増徴の継続を支持しようとすらした(1902年10月2日付東京朝日新聞。党が反対する中、大石が選挙区の三重県で賛成の演説をしたことを事実だとしている)。しかし、党内には後に三四倶楽部を結成した議員達など、軍の整理を含む消極財政を主張する、つまり民党の色を強く残す議員達がおり、内部からは反発が起こった。既存の民党であった立憲改進党と、消極財政・低負担の志向がより強い新民党の議員達と、対外強硬派が合流したものであった進歩党の、後継政党であった憲政本党は、双方に裂かれる傾向を見せていた(ただし、増税反対派であった石原半右衛門は、大成会、巴倶楽部、芝集会所、政務調査所、大手倶楽部を経て進歩党の結成に参加しており、例外である)。

犬養は進歩党結成の前、幅広い勢力を糾合するために中国進歩党を結成していた(第2章連結器(⑧⑪)参照)。そこには対外強硬派の竹内正志が参加していた。これは、第4次伊藤内閣期、生粋の改進党系であった犬養が、対外強硬姿勢を採ることで、貴族院を含む他の勢力との関係を強めようとしていたことと同じく、優位政党に対抗しようとする第2党の苦闘の、わかりやすい例である。同時に、その苦闘の問題点を示す例でもあると言える。竹内が実際に、改進党系を離れているからだ。ただしそれは、新民党の三四倶楽部の結成によってである。竹内はその後、無名倶楽部から政交倶楽部まで、同志研究会の本流を汲む新民党に所属していたから、民党的な志向から憲政本党を離れたのだといえる。しかしこの新民党の系譜も、小川平吉ら対外強硬派を少なからず含んでいた(そもそも新民党は、その野党性からも対外強硬姿勢をとるか、対外強硬派の議員を含んでいるものであった)。またこの新民党の系譜には途中、やはり立憲改進党以外から進歩党の結成に参加した、越佐会の大竹貫一も名を連ねていた(対外硬派の会派から進歩党の結成に参加した大竹は、憲政本党を脱し、新潟進歩党、交友倶楽部を経て、同志研究会の系譜に移った)。そして最終的に、竹内は新民党を脱し、大同倶楽部、その後継の中央倶楽部という、対外強硬派の熊本国権党を中核とする、吏党系に身を置いた。大竹がなぜ変わったのかは分からない。しかし変わったこと、竹内が改進党系から離れたことは、事実である。