日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(④⑥⑦、補足)~優位政党が過半数割れした時~

1列の関係(④⑥⑦、補足)~優位政党が過半数割れした時~

立憲政友会(自由党系)は第1党ではあったものの、過半数を割る野党となり、離党者が続出ていた。過半数までの距離が遠くなるほど、当然ながら、同党の優位性は弱まった。離党者がいつまで出続けるのかわからない状況も、同党の優位性を弱めた。これは憲政本党(改進党系)にとって、1つの大きなチャンスであった。しかし、立憲政友会は憲政本党と連携しながら、桂とも取引きをし、桂を支持することで次の政権を得た(第9章参照)。つまり1列の関係、自由党系のキャスティングボートは維持されたのであり、憲政本党は利用されただけであった。自由党系が、公家出身の自由主義者という、薩長閥における政党の認知と議院内閣制への前進を両立させ得る西園寺を党首に迎えることができたのは、直接的には伊藤系と合流したからだが、つまりは、1列の関係における自由党系の有利な立場によるものだといえる。伊藤が総裁であれば薩長罰とのつながりを武器にすることができるし、伊藤が総裁でなくなれば、憲政本党と自由に野党共闘を組める。このことも、1列の関係において、薩長閥を前に、そして改進党系(憲政本党)を後ろにしていた自由党系の、優位性によるものであった。

当時、憲政本党が山県-桂系との提携に成功していれば、与党となり、与党として総選挙を迎えて躍進する可能性もあったと考えられる。立憲政友会離党者の一部を含めた第1次桂内閣(山県-桂系)寄りの勢力)と合わせて、衆院の過半数を上回ることも、できたかも知れない。しかし、第1次桂内閣による立憲政友会の切崩しも、同党との合意も、それに対する同党内の反発も、優位にあった立憲政友会に関する動きであり、憲政本党はどのような立場を採っても、現実には脇役に過ぎなかった。憲政本党(改進党系)が主役になれなかった要因は、議席数の少なさにあった。確かにこの当時は、立憲政友会(自由党系)の議席数が減っていた。しかしまだ憲政本党との議席数の差は大きかったし、自由党、進歩党の時代も含めれば、かつてないほど少ないというわけでは、全くなかった。この、まだ大きなかたまりを敵に回す危険性は、山県-桂系にとって小さなものではなかった。それでも立憲政友会より憲政本党をとろうと思わせるほど、憲政本党にはまとまりや、反薩長閥から脱却するだけの柔軟さがなかったことも、確かである。議席数だけで言うなら、憲政本党は、第6回総選挙後は第1党であった。それでも自由党系の劣位に甘んじた(あくまでも薩長閥との連携、当時の政界における地位について)。良し悪しは別として、薩長閥にがむしゃらに接近しなければ、状況は変わるものではなかったが、憲政本党は、その気が全くなかったわけではなかったが、そこまでするよりも、野党として第1次桂内閣を追求する道を、党全体としては選んだのである。

立憲政友会が野党色を強めても、桂・伊藤合意への怒りを抑えて、野党を貫く方に舵を切った憲政本党が、今さら第1次桂内閣に寄るということも、難しかったであろう。しかし、それがある程度有効だとも考えられる状況であったから、党内にはそうすべきだとする勢力があった。その勢力には何より、生粋の改進党系(立憲改進党出身者達)が中心の、党執行部への対抗心、その執行部が自由党系に振り回されてきたことに対する憤りがあった。憲政本党の不振も2派への分化も、1列の最後尾にとっての宿命であった。

 

 

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