日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑤~⑦、補足)~吏党系の強化~

(準)与党の不振(⑤~⑦、補足)~吏党系の強化~

中立派との連携が強まるという、吏党系(帝国党)が望んできた展開となる中、そこにさらに立憲政友会を離党した土佐派等による、自由党となる勢力も加わった。立憲政友会が他をある程度引き離してはいたが、山県系が望んできた、どの勢力も過半数を上回らない、3勢力(自由党系、改進党系、吏党系)の鼎立状態にもなりつつあった(立憲政友会はすでに、過半数からどんどん遠ざかっていた)。つまり、山県系も吏党系も、かつてなく有利な立場となったのである。山県-桂系にとっては、2大政党内の、両党の連携に反対の議員達、薩長閥政府に寄りたい議員達、他の不満分子を切り崩せば、2大政党に対抗する勢力を形成することも夢ではなかった。ただし、吏党系・中立派・立憲政友会離党者の団結力が弱ければ、かつての大成会→中央交渉部と同じことになる。吏党系と中立派だけでは、大成会、中央交渉部、特に後者の議席数の水準には遠く及ばない(議席数も及ばなかったし、以前は定数が300と少なく、議席占有率でみると、より低い水準であった)。憲政本党にも及ばない。双方が合流することには、吏党系と中立実業派の再統一という意義はあったし、中国地方、熊本県内選出議員がそれぞれ3分の1ずつを占め、市部選出の議員がほとんどいないという、吏党系の偏りを改めるというメリットもあった。しかし最も重要な議席数については、吏党系と中立派の合計約50議席に、2大政党の離党者を一人でも多く加え、80余りの憲政本党と同水準になるのはもちろん、181から123(第18回帝国議会解散当日)へと減っていった立憲政友会、過半数189に少しでも近づく必要があった。これを安定的に達成するには、立憲政友会の離党者がなるべく大きなまとまりになる必要があった。

桂の多数派形成は、帝国党、中正倶楽部、6月6日に解散した旧政友倶楽部の議員達を基礎に、2大政党の離党者を加えていこうとするものとなったが、それらをまとめるための旗が、「親英・対露強硬」であった。大日本協会が存在していた時期の、対外硬派の要人を含む憲政本党内の対外強硬派にとって、自由党系の裏切りを何度も見て、経験した後では特に、それは都合の良いことであった。憲政本党の所属であり、玄洋社出身の平岡浩太郎は、山県-桂系との連携を志向し、憲政本党全体を政府に接近させることができそうになかったことから、同じ国民協会出身の曽祢荒助を党首とする、新党を結成しようとしていた(1903年6月22付萬朝報。平岡が鉱山業の行き詰まりのため、政府から資金や保護を得ようとしていたとしている)。6月28日付の萬朝報は、やはり「曾禰黨帷幕の謀臣」である高野孟矩(宮城県郡部選出)が、東北で運動を開始し、仙台の鎌田三之助(宮城県郡部選出―宮城県には市部の選挙区はなかった―)、福島の渡辺鼎(若松市選出)、青森の寺井純司(青森県郡部選出)、秋田の大久保鉄作(秋田市選出)、山形の雄倉茂次郎(山形市選出)、佐藤里治(山形県郡部選出)、駒林広運(山形県郡部選出)との交渉が済んでいるとしている。また、計画は桂太郎、平田東助も同腹だが、充分成算が見えるまで知らぬ顔をするはずで、立憲政友会の広島系の離党者が、この新党の結成に参加するために離党したのだとしている。記事で挙げられた議員のうち、無所属であった高野、雄倉、憲政本党を脱して議員同志倶楽部の結成に参加していた佐藤里治、立憲政友会に留まった大久保以外が、立憲政友会の離党者であった。そして高野、渡辺、駒林は自由党の、鎌田は同志研究会の、寺井は交友倶楽部の結成に参加し、雄倉、佐藤は無所属に留まっている。12月に結成された自由党が、「曽祢新党」に比較的近いものであったということだろうが、平岡は憲政本党にとどまって参加しなかったし、対外硬派全体、立憲政友会の不平派全体を第2吏党のようなものにすることは、叶わなかった。

対外交硬派としての帝国党の動きは、第1次桂内閣の安定的な支持基盤の形勢、あるいは少なくとも圧倒的多数の野党陣営の破壊を目的としていたわけだから、これが達成されなかった時点で、準与党であった帝国党が対外強硬派である意味は、失われたのである。ただしこれは、単独で対外硬派を離れたと言える日清戦争後と違い、吏党系の一定の勢力拡大自体には、まだ有利な状況であった。

 

 

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