日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・連結器(⑤~⑦、補足)~同志研究会~

第3極・連結器(⑤~⑦、補足)~同志研究会~

立憲政友会の革新運動をしていた議員達、あるいはそうではなくても、第1次桂内閣(山県-桂系)との妥協に本当に反対の議員達が結成したのが、同志研究会であったと言える。対外強硬派の議員も含まれていたが、薩長閥への対抗、総選挙で示された民意に基づくような、政党内閣(議院内閣制)の実現を最重要視する勢力であった。『望月圭介伝』は、2大政党の連携を策していた同志研究会の行動が、立憲政友会への復帰を暗示していたものだとする(192頁)。考えられないことではない。しかし、仮に自由党系の内閣の成立を、ほとんど最終目標にしている議員がいたとしても、それでも、その実現は議院内閣制実現への突破口でもあったし、この当時、有権者に最も支持されていた政党は立憲政友会であったし、衆議院のなるべく多くの勢力、議員達が、一致して政党内閣の実現を目指す必要があった。新民党は、本来の民党の消極財政志向を受け継いでいた。同志研究会に立憲政友会以外から参加した奥田義人(伊藤系)、加藤高明(『補論』⑭参照)も、消極財政思考であった(加藤については第11章以降で見る)。伊藤系の奥田は行政整理に挫折して法制局長官を辞していたが、その改革案は、官吏の削減、文官任用例の緩和を含む官制改革、文官の増加を含む陸海軍の改革、司法制度、天皇の統帥権にも関係する、多岐にわたる進歩的なものであった(岡田朋治『嗚呼奥田博士』138~155頁)。だから奥田は、新民党に参加するのにふさわしい人物でもあったと言える。なお、奥田と加藤以外の、立憲政友会所属衆議院議員ではなかった同志研究会所属議員は、岡崎賢次、城重雄、高野源之助、丸山名政であり、城が政友倶楽部、丸山が立憲改進党と政友倶楽部に属した経験があったが、他は初めて衆議院の会派に参加した議員達であった。

『磐州河野廣中伝』の林田亀太郎の実話とされるものには、林田が同志研究会について、三宮式部長に、「政府反對の急先鋒」と説明したとする(下巻635頁)。この際、憲政本党だけが内閣に反対であったという形勢がなぜ変わったのか(なぜ2大政党と同志研究会という、大多数が野党となったのか)と尋ねられた林田は、ある議員の話だとして、桂内閣が前議会から、議会に対して財政、行政の整理を約束しながら、見るべきものがないだけでなく、対露交渉も捗しくないということを挙げたのだという。2大政党は影響力強化、政権獲得のために共闘を選んだという面が大きかったとしても、少なくとも格好の口実を、第1次桂内閣が与えてしまったということはできる。同志研究会は、互いに連携強化を模索する2大政党の別動隊ではあっても、立憲政友会の別動隊ではなかった。尾崎は自伝において、地租問題のためだけに立憲政友会を離れたのであって、離党後も終始同派を援助していたとしている(『尾崎咢堂全集』第11巻咢堂自伝391頁)。仮に、個人的にはそのつもりであったのだとしても、立憲政友会と憲政本党の連携が破綻した後については、同志研究会の系譜が立憲政友会寄りであったとは、とても言えない(第9、10章参照。小川が1910年に立憲政友会に復党した時に理由としたのは、非政友会勢力の大合同を果たせずに、中合同-中央倶楽部と立憲国民党が別々に結成された-に留まったことであった)。

同志研究会が衆議院議長選挙を自由投票としたことは、不自然なように見える。同派が立憲政友会と憲政本党の連携を志向しており、河野が両党の支持を得ていたからだ。しかし、河野は対外硬派の動きを通じて、第1次桂内閣とつながったのではないかとも見られていた(本章第3極(⑤~⑦)参照)。事実として河野は、第1次桂内閣寄りの議員を多く含む、第3会派以下の支持も得ていた。実際にはそうでなかったことが、間もなく奉答文事件で明らかとなり、河野は第9回総選挙後にも、同志研究会系と合流するわけだが、同志研究会が所属議員達を拘束しなかったことは、善し悪しは別として、新たな新民党の、中立派の一面を、すでに持っていたということを示している(従来の中立派の流れは、中正倶楽部の後継の甲辰倶楽部の、吏党系との合流―大同倶楽部の結成―で断絶し、同志研究会の系譜に引き継がれたと、筆者は捉えている―第9章以降で述べる―)。花井卓蔵の合流を待たず、そのような一面を見せていたことは注目に値する。そもそも、政党ではなかった同志研究会が、所属議員を拘束しなかったことは不思議ではないのだが、全体としては姿勢が明確であり、所属議員も基本的には良くまとまっていた同派であったから、このようなことを考えることには、意味があると考える。

 

 

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