2.キーワードで考える日本政党史

第3極(⑤~⑦、補足)~交友倶楽部~

交友倶楽部は中立とされていたが、分かりにくい勢力である。同派の結成に参加した立憲政友会離党者の大部分は、神奈川県、愛知県、広島県内の選出であり、他も隣接する東京府、岐阜県の選出であった。広島県の離党者は、第1次桂内閣寄りだと見られていた(本章補足参照)。自由党結成の中心となる、土佐派や関東派と一体になることに消極的、否定的であった議員達が、交友倶楽部を結成したのだと考えられる。12月8日付の萬朝報も、「林有造等の新政黨と伍するを快とせざる一派の無所屬者」が交友倶楽部を結成したとしている。交友倶楽部を政党化しようとする動きは見られなかったから、彼らは政党の結成にも否定的であったのだろう。改進党系を離れた新潟進歩党系が、以前自由党系の中心であった土佐派が中心の新党に参加することに否定的であっても、不思議ではない。しかし、交友倶楽部に参加した立憲政友会の離党者9名のうちの4名は、その後自由党の結成に参加した。彼らは、土佐派や関東派がある程度まとまり、新党が比較的多くの議員を集めることができそうな状況を見て、参加に転じたのかも知れない。あるいは新党が結成されるまで、とりあえず無難な会派をつくった(無難な会派に参加した)だけなのかも知れない。交友倶楽部についてまとめるならば、対外強硬派の議員を多く含んでいるものの、対外強硬派が集まった会派であったとまでは言えず、また第1次桂内閣寄りとそうでない議員の双方を含んでおり、伊藤が総裁を辞任した立憲政友会、混乱を見せた立憲政友会を見限った議員を含め、その当時無所属であった議員達が、第1次桂内閣寄りの色、新民党的な色の弱い、中立性の高い会派を、とりあえず結成したものだとする以外にない。同派は12月12日、解散を決議した(1903年12月14日付読売新聞)。