日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極(⑤⑦)~第3極の変化~

第3極(⑤⑦)~第3極の変化~

立憲政友会の離党者が結成した会派は、3つある。第19回帝国議会開会前の、12月を待って結成された、同志研究会、交友倶楽部、そして自由党だ。自由党だけは衆議院解散後の結成であり、会派として現れるのは第9回総選挙後である。これらが結成された当時までに、6月6日に政友倶楽部が、同志研究会の結成と同日の12月1日に、同志倶楽部が消滅している。政友倶楽部は解散時13名であったが、自由党に、立憲政友会除名の5名中4名を含む8名が、同志研究会に1名(他に政友倶楽部を5月11日に脱した1名も)が参加し、1名が立憲政友会に参加、2名が無所属となった。同志倶楽部は、8名中、新潟進歩党の6名と新潟市選出の鈴木長蔵が交友倶楽部に参加し、他の1名(吉村英徴)が無所属となった。2つ消えて2つ現れたから、衆議院の解散までは、会派の数は増えていない。自由党が政友倶楽部の流れも汲み、交友倶楽部が同士倶楽部の流れも汲んではいるが、それぞれ政友倶楽部、同志倶楽部に、性格を決定付けられたわけではない。つまり、第3極の一部は、変化したのである。どう変化したのかは、特に当時の段階では不明瞭だが、同志倶楽部→交友倶楽部は、新民党の性格をほとんど失った。同志研究会が立憲政友会の別動隊とみられ、同派と憲政本党の連携を志向していたのに対し、交友倶楽部は、新潟進歩党系を含み、憲政本党の別動隊とみられていた(1903年12月11日付読売新聞。議会の人事に関して、12月10日付の東京朝日新聞などが、交友倶楽部が憲政本党の長谷場を全院委員長に推すことを決めたことを報じつつ、同志研究会が自由党の別動隊であるように、交友倶楽部が憲政本党の別動隊であるから、奇異ではないとしている。また、新政党(自由党となる勢力)、中正倶楽部以上の「吏黨」も少なからずいることから、(内部で)一致し得ないとしている。そのような面がなかったわけではないが、同志研究会は、立憲政友会よりも、反薩長閥政府であり、2大政党などの民党共闘を志向した(立憲政友会が同志研究会と同様であった時、それは理念が近くなったということではなく、政権奪還を目指す立憲政友会の、一つの戦略に過ぎなかった)。交友倶楽部は、同派の新潟進歩党系が憲政本党の対外強硬派の別動隊ではあり得ても(衆議院議員達は憲政本党への合流に反発して、交友倶楽部を結成し、憲政本党と分立したのだから、実際にはそうはならなかったと言える)、2大政党の連携強化を志向した同党の別動隊といえる会派ではなかった。同志研究会と交友倶楽部が「別動隊」とされるような会派ではなかったことを示す一つの出来事でもあるのが、奉答文事件(本章第3極(⑤~⑦)参照)である。

立憲政友会から離脱者が続出する前は、帝国党が右の極、中正倶楽部と政友倶楽部が右寄りの中立であった。しかし、憲政本党離党者が同志倶楽部、立憲政友会離党者が政友倶楽部と、単に出身政党・会派別にまとまっているという面も大きかった。対外硬派の再形成は、第3極を1つにすることができる旗であり、帝国党はこれを利用しようとしていたが、第3極全体をまとめることはできなかった。左の極を担うべき同志倶楽部(新潟進歩党)の動きはやや不明瞭であったが、同志研究会は、帝国党の動きと明確に一線を画した。つまり対外硬派、同時に第3極が左の極と右の極に分かれた。ただし帝国党がより多くの勢力、少なくない議員達をまとめたことは事実であり、右の極は左の極より多かった。

 

 

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