日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
2大民党制・第3極(⑦)~全院委員長選に見る対立構図の変化~

2大民党制・第3極(⑦)~全院委員長選に見る対立構図の変化~

12月6日付の読売新聞は、2大政党の領袖が、予算委員長を大岡育造(立憲政友会―国民協会出身―)、全院委員長を尾崎行雄(同志研究会)とすること、常任委員を2大政党で独占することを計画しているとする(1903年12月6日付読売新聞)。これは9回総選挙後に明確となる、2大政党による第1次桂内閣寄りの勢力の廃除の始まりである。一方、帝国党、同志倶楽部、中正倶楽部、無所属は、全院委員長に神鞭知常を推した(1903年12月8日付萬朝報、同10日付東京朝日新聞)。神鞭は、犬養が自身と同じ対外強硬派の平岡浩太郎を党から除名しようとしていたことに反発し、7月下旬に憲政本党に脱党届を提出した。しかし大隈が平岡を抑え、除名問題がなくなったことで、神鞭の離党もなくなった。(1903年7月29、31日付東京朝日新聞。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、神鞭は7月27日に無所属になったとされており、復党に関する記述はなく、第9回総選挙で憲政本党から当選したように扱われている)。2大政党+同志研究会対、第1次桂内閣寄りの勢力という構図が明確であり、憲政本党の対外硬派が後者に付けば、前者が過半数を割ることはなくても、多少上回っているという程度まで減る可能性があった。ただし、前者がしっかりとした組織を持っており、立憲政友会が憲政本党などを利用しているという面はあっても、薩長閥政府を倒すという目標で一致していたのに対して、後者は組織が満足になく、まとまりも弱かった。第1次桂内閣のバックアップがあったとしても、総選挙では過半数を上回ること、その勢力を分裂せずに維持することは難しかったと考えられる。

 

 

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