2.キーワードで考える日本政党史

第3極・2大民党制(⑤~⑦)~奉答文事件とその影響~

奉答文事件は、対外強硬派であった秋山定輔(交友倶楽部)が、河野に提案したもので、同志研究会の尾崎行雄、鈴置倉次郎、小川平吉、日向武輝らも相談を受けていた。尾崎は本来対外強硬派ではなかったが、第1次桂内閣への反発も背景にあったのだろう。立憲政友会の原、憲政本党の犬養も事前に知らされており、賛同はせず、やはり黙認した(秋山は憲政本党の犬養に、内閣不信任案の提出、賛成を働きかけたが、犬養は、衆議院の解散を恐れる弱い党員が多いとして、いずれについても応じなかった―『秋山定輔は語る』210~211頁。言葉通りの意味、そしてそれと重なる部分もあるが、対外硬派の議員の離党を恐れていたということもあったのだろう-)。河野は第2次伊藤内閣期の対外強硬派の内地雑居尚早論、条約励行論には反対の立場であったが、当時、対露早期開戦論者であった。1907年7月には大竹、小川、国友重章、五百木良三、頭山満らの5名と共に、第1次西園寺公望内閣宛、伊藤博文宛に、日韓両国を合併することを求める建議書を提出している(『小川平吉関係文書』二28頁)。秋山は近衛篤麿の桜田倶楽部(他に小川平吉ら)に参加した対外強硬派であった。『秋山定輔伝』によれば、1903年12月に結婚した時、伊藤が媒酌をつとめた(第1巻102頁)。同志研究会に参加していてもおかしくはないのだが、同派と同様に対外強硬派を多く含んでいた、中立の交友倶楽部の結成に参加した。ただし第9回総選挙後は、同志研究会の後継会派であった、無名倶楽部の結成に参加する。

政府弾劾の内容を含まない奉答文を再議するかという問題は、当然ながら各党派の立場を明確にし、対外硬派の左右の別を明確にした。この、衆議院自体での問題に関して、その議員があいまいな姿勢をとったり、無関係、中立を装ったりすることは、難しかったからだ。第1次桂内閣寄りの帝国党、中正倶楽部、自由党を結成する議員達、交友倶楽部の非新潟進歩党系(非旧同志倶楽部系)が再議を主張したのに対し、同志研究会と交友倶楽部の新潟進歩党系(非同志倶楽部系)は、2大野党、つまり2大政党と同じく、再議に反対した(1903年12月11、12日付東京朝日新聞。1903年12月16日付の読売新聞は、奉答文再議説を採る帝国党、新政党、中正倶楽部、交友倶楽部、無所属の前衆議院議員らが14日に会合し、佐々が宣言書起草の顛末について演説、佐藤虎次郎が議長の行動を否認する宣言書を朗読し、これが満場の拍手で可決され、井上角五郎、駒林広運が演説したことを報じている)。中立会派らしい統一性の乏しさ、というよりも2分化状態を見せた交友倶楽部であったが、同派の再議賛成派を憲政本党の別動隊と捉えることは、もちろんできない。また、憲政本党内の対外強硬派(2大政党連携反対派)は、自らの主張を貫くことが出来なかった。これで、対外硬派の左右への2分化を伴う、2大政党等と吏党系等への、衆議院における2分化がはっきりすると共に、よほどのことがない限り、同院では勝負が決まったと言える状態になった。第3極に被せられていた「対外硬派」というヴェールははがされ、議員達が対応を試され、第1次桂内閣支持派と不支持派への分化が明確になり、4極構造が明確になったのである(本章第3極(⑤⑦)参照)。同時に、第1次桂内閣支持派(つまり最も右の極)が、衆議院では多数派になり難いことも、改めて明確になったと言える。

河野は憲政本党を離党したが、かつて河野に同調して自由党を離党、河野が結成した東北同盟会に参加し、当時やはり彼と共に福島県郡部選出の憲政本党衆議院議員であった平島松尾、相沢寧堅は、憲政本党に留まった。1903年12月1日付の読売新聞は、「新政黨仲間」が言ったこととして、福島県の平島、安部井磐根、愛沢、柴四朗らが対外硬を唱えて平岡や神鞭と同一の行動を採っているのは、桂首相及び平岡との関係から憲政本党を去る階梯であり、河野もその同臭味の一人だと報じたが、第9回総選挙後に、秋山と同じく同志研究会系と合流した河野と、憲政本党に留まった平島、愛沢は袂を分かったのだと言える。憲政本党と同志研究会は協力関係にあったが、それは憲政本党内の対外強硬派が望まない、民党共闘の枠内でのことであった。とは言っても、対外硬派右派は、河野も平島らも味方にすることができず、双方は2大政党連携の枠組みに収まった。多数派になれなかっただけでなく、対外硬派右派自体のまとまりも、強くはなかった。帝国党、中正倶楽部、新政党、無所属の前代議士40名以上が集まり、運動方針について協議した際、佐々友房、井上角五郎が連合倶楽部を設けようと発議したのに対し、新政党中の関東派(関東地方選出の全議員ではなく、星系であった勢力を指す)が第一に異議を挟んで席を去り、成立しなかったということもあった(1903年12月13日付東京朝日新聞)。吏党系と中立派の接近は、かつてないほどに明確であったが、自由党を結成する、政党人としてのプライドを持つ議員達と、政党に入ることを好まない議員を含む、中立派が大きく、密にまとまることは難しく、合流への歩みは、足踏みをすることになる。少しさかのぼるが、5月21日付の読売新聞は、帝国党が追加予算を、国力発展を阻害しない範囲において削減することを唱え、中正倶楽部が必用な事業以外の繰り延べを唱えたことを報じている。吏党系が政費節減を唱えること自体は不思議なことではない。政費節減に取り組まざるを得なかった第1次桂内閣の姿勢に、準ずるものであったとすら、言えないことはない。だが、吏党系と中立実業派が緊縮財政でまとまり得ることが、おぼろげにも示されていたことは重要である。こうして衆議院解散の翌日、12月12日付の読売新聞は、帝国党、中正倶楽部、議員集会所、交友会、無所属が選挙について協議したとしている。それまでの第3極には見られなかった傾向であるから、ついに大きな一歩を踏み出したのだといえる。