2.キーワードで考える日本政党史

第3極(⑤⑦)~4極構造~

4極構造とは、政党内閣に否定的な薩長閥(当時は≒山県-桂系)と近い、吏党系を最も右の極とし、その薩長閥と駆け引きをして政権を得ることを優先させる自由党系を中央右、同様の志向と、薩長閥と妥協せずに対決しようとする志向が同居し、そのために、また議席数の少なさから、自由党系のような成果を上げられない改進党系を中央左に、薩長閥と最も強く対立した新民党(当時は同志研究会)を左の極とするものである(『補論』⑰参照)。筆者は戦前について、2大民党系以外(基本的には第3会派以下、第3党以下の勢力。『補論』①参照)を第3極と呼んでいるが、吏党系と新民党の差異は明確であり、同志研究会の結成後は、それらを便宜上1つの極としておくことすら、不自然であるように思われる。吏党系は議会開設当初からずっと存在していた。新民党が一定期間存在したと言えるのは、第2回総選挙後から第4回総選挙後にかけてである。立憲革新党と、同党を結成した同志倶楽部、同盟倶楽部がそうなのだが、これらは、吏党系と共に第2次伊藤内閣(薩長閥政府)と対立する野党であり、中立派の多く、改進党系、吏党系と対外硬派を形成していた。新民党と吏党系が協力している時すらあり、4極構造とはし得ないのだ(第3回総選挙の前までは吏党系の方が改進党系よりも議席数が多く、第3回総選挙以後と比べると特殊である。吏党系―国民協会―が薩長閥の第2次伊藤内閣に寄った時期、つまり右に帰ったとも言える時期と、改進党系―立憲改進党―や新民党―立憲革新党―が進歩党を結成した、つまり中央よりも左の勢力が1つになった時期は近い)。その後、1901年に改進党系(憲政本党)の離党者によって、新民党とし得る三四倶楽部が結成され、その後継の同志倶楽部は、自由党系(立憲政友会)の離党者が親民党とし得る同志研究会を結成する、その当日まで存続していた。だから三四倶楽部が結成された1901年2月から、4極構造となっていたと見ることができる。ただし、三四倶楽部結成時は、自由党系(立憲政友会)が政権を握っており、次に薩長閥政府(山県-桂系の第1次桂内閣)に憲政本党が寄ろうとしたこともあり、民党連合の形成に積極的に動くことはなかった(連結器の役割を果たすことはなかった。補論⑮参照)。また、同時に存在していた中立派も、第8回総選挙前までは、(必ずしも)薩長閥寄りだとは言えなかった。以上から、三四倶楽部の結成によって4極構造の傾向が強まり、同志研究会が結成された1903年12月に、本格的な4極構造になったのだと、筆者は捉えている。

なお、連携する2大政党を1つの極と捉えることは、とても出来ない。2大政党は当時、確かに協力関係にあった。しかし少し前にも、もっとさかのぼれば2大民党による憲政党の結成後も、自由党系は改進党系を裏切っていた。本来ライバルであるべき2大政党が、長期的に協力関係を築くことは、よほど強力な敵が存在しない限り難しいし、不自然である。確かに、議会が開設される前から、2大政党には薩長閥という強力な敵がいた。後に2大政党等が解党して合流した時には、アメリカという強力な対戦国が存在した。日本社会党の存在があったから、2大政党と呼ぶことはできないが、かつての2大政党の本流を汲む第1、2党であった自由党と日本民主党が、合流して自由民主党を結成したのは、強力な敵になると考えられていた、日本社会党が復活した直後であった(日本社会党が復活した直後に限れば、衆議院は日本民主党が第1党、日本社会党が第2党、自由党が第3党であった)。1903年には、2大政党が薩長閥との接近を巡って競合関係になり得ることは、明確になっていたと言える。特に自由党系は、改進党と対立関係にあった時はもちろん、「裏切った」としたように、改進党系と協力関係にある時にすら、何度も薩長閥の勢力と接近していた(伊藤が立憲政友会の総裁となり、そのようにした場合を含む)。2大政党を1つの極と見るのは、その合流が実現して、一定期間元の2党に分裂せずにいた場合か、あるいは少なくとも、協力関係が長期間、安定的に持続した場合に限るべきであると考える。日本の2大政党がそのような状況となった例は、議会開設当初(第4回帝国議会の半ばまで)に限られる。憲政党は約4ヶ月で崩壊したし、それが存在していた時にも、自由党系と改進党系が党内で激しく対立していた(ここでは述べないが、1924年に、改進党系の流れの半分を汲む憲政会と、大分裂後の立憲政友会の連立についても同様である)。戦時の翼賛体制は、1つの政党を結成したとは言い難く、挙国一致体制に近いものの、そうでない面もある、特殊な例である。自民党の結成は、戦前の2大政党の系譜が合流したものではあっても、結成当時、2大政党が合流したのだとは言い難い。以上から、自由党系と改進党系は、たとえ一定期間協力関係にあっても、中長期的には別々の極と見るべきだと言える。

吏党系と自由党系を1つの極、改進党系と新民党を1つの極とし得るだろうか。前者は接近することが度々あったし、1903年より後を見ても、大同倶楽部が立憲政友会に寄ることはあった。しかし、接近と対立を繰り返しており、何より政党内閣の是非について一致していなかったから、1つの極とはし得ない。改進党系と新民党は確かに志向が近かった。しかし、三四倶楽部は憲政本党から離党したばかりであり、再統一が模索されはしたものの、第1次桂内閣に寄ることも考えた憲政本党とは、明らかに異なっていた。そして、同志研究会の系譜が存在していた時期には、憲政本党内部は明確に志向の異なる2派に分化していた。全員が一致してはいなくても、同様であったとはいえない同志研究会の系譜を、改進党系と1つの極にまとめるべきではないだろう。唯一、立憲改進党と立憲革新党(とその前身)は、まとまって行動しており、合流もした。しかし、その合流までには吏党系も協力関係にあった。特に近かったとはいえ、立憲改進党と立憲革新党だけをまとめることもないと考える。その当時については、薩長閥の伊藤系に寄った自由党系と、他の勢力の2極構造であったと言うべきだ。

では同志研究会が結成された当時について、中立の会派を1つの極と見て、5極構造であったと捉えることはできるだろうか。この当時の中正倶楽部、交友倶楽部、双方の後継の面を持つ、第9回総選挙後の甲辰倶楽部、第10回総選挙後の戊申倶楽部は、全体的には吏党系と近く、甲辰倶楽部と戊申倶楽部は次章以降で見るように、吏党系と合流する議員達と、そうでない議員達に分裂をした。つまり、中立的な勢力が安定的に存在することはなかったのだと言える。やはり、1903年12月の同志研究会の結成から、1913年の立憲同志会の結成までについては、4極構造であったと見るのが妥当だと考える(4極構造の終点については、本章では保留にしておく)。

立憲政友会の分裂以後、第3極がどのように変化をしたのか、整理すると次のようになる。

・立憲政友会からの離党者の参入により、全体としては第2党と同等の勢力となった。

・2大政党の連携により2極化の傾向が見られ、第1極には遠く及ばないものの、その一つの極となり得た(1903年11月24日付読売新聞。同志集会所及び信州組、他の中立団体とで、150名以上の衆議院議員の団体となるという説さえあるとしている)。ただしすでに述べたように、筆者は2極構造になったとは捉えていない。

・政局の流動化、第3極の増加の機会をとらえた吏党系(帝国党)が、第3極の取りまとめに動き、立憲政友会の離党者だけでなく、薩長閥寄りの中立の勢力が、吏党の陣営につくような動きを見せた。

・立憲政友会の離党者の一部は、薩長閥寄り(第1次桂内閣寄り)とはならず、以前の自由党系の離党者の一部と同様に、2大民党の連携の深化を志向した。

・奉答文事件によって、第3極の2分化の傾向が明確になった。

 

考えてみれば、この当時は、2大民党が合流して憲政党を結成しようとしていた1898年前半と似ている。一致する点と異なる点を比較すると、表⑧-Aのようになる。

 

表⑧-A:憲政党結成当時と1903年の立憲政友会分裂当時の状況

一致する点 異なる点(1903年の場合について記す)
・中立的な会派の、(合計の)議席数が比較的多く、吏党系、新民党、中立実業派が存在した。

・接近する2大民党側に、それを促す10議席程度の新民党がついていた。

・2大政党(2大民党)が共に過半数に届いていなかった。

・2大政党に合流を模索する動きがあった(ただし1903年の方が小規模)。

・吏党系と中立派が合流するには至らなかった。(憲政党結成時は合流せず、ごく限定的な再編に終わったが、1903年の立憲政友会分裂後には、やや間を空けて、合流を含めた再編があった)。

・第3極が2分されていることが明確になった(憲政党結成時は、憲政党への参加と不参加)。

・薩長閥政府寄りの勢力が、第2党に劣らない議席数であった

・中立派に、吏党系と協力しようとする傾向が顕著であり、薩長閥・吏党系と2大政党(2大民党)の陣営への分化の度が低かった(第9回総選挙後の旧中正倶楽部、旧交友倶楽部の議員の所属を見ると良く分かる)。

・新民党の議員達の同質性がより高かった(憲政党結成当時は東北同盟会、鹿児島政友会、新自由党によって構成されていた)。

・自由党系離党者の多くが薩長閥寄りになった。

・2大政党の議席数が同水準になく、自由党系の方が改進党系より明確に多かった。

・2大政党合流失敗の先例があった。

・2大政党内に合流反対派が多く存在し(立憲政友会は要人達も皆合流に反対であったと考えられる)、合流が実現しなかった・

・合流が実現しなかったため、第3極の分化が、新民党の他党への合流を伴うものとはならなかったことから、明確に4極構造へと進んだ。

 

構図は似ているが、2大政党の力関係、第3極の在り方に小さくない差異があったことが分かる。憲政党結成当時(1898年前半)の第3極は、新民党が2大政党(2大民党)に、吏党系が薩長閥側につき、中立実業派が双方に分裂した。1903年は新民党が2大政党、吏党系が薩長閥(山県-桂系)についた点は同様であるが、それまでの中立派の系譜を汲む甲辰倶楽部が分裂せず、薩長閥の側に、より明確に与した(もう1つの中立派の交友倶楽部系は、吏党系の再編に参加する議員達と、秋山、新潟進歩党系等、同志研究会の系譜に分かれるが、主流は前者であったと見るのが自然だろう)。さらに土佐派等の自由党も薩長閥側についた。憲政党結成当時よりも、薩長閥(政府)側につく議員達が格段に多かった。自由党系の離党者の多くが、憲政党結成当時には2大政党(2大民党)についたのに対して、今度は薩長閥についたと言うこともできる(離党者の数はもちろん、1903年当時の方が、憲政党結成当時よりもずっと多かった)。薩長閥は、以前と比べれば多くの味方を衆議院に持っただけでなく、過半数を上回る勢力が存在しなくなったことで、少なくとも衆議院のキャスティングボートは握ることができたのである。

2大民党の系譜のどちらかが過半数を上回る状況は、立憲政友会が結成された1900年よりも前には存在しなかったし、第3回総選挙よりも前を見れば、明確に薩長閥寄りである議員が、第9回総選挙前後よりも多かった時期はある。しかしこの2つの条件がそろい、かつ自由党系と改進党系の協力関係がもろいものと示されていたことは、やはり薩長閥にとって、以前よりも有利な状況であったことを意味する。もちろん、当時は2大民党の系譜が手を組んでいたのだから、あくまでも比較的有利な状況であったに過ぎない。この状況を基礎に薩長閥政府にの展望を開いたのは、内閣の中心が桂太郎、自由党系の中心が原敬、顔役が西園寺公望になるという、世代交代であった。これについては第9章以降でみるのだが、付け加えるなら、大隈に代わる一人の実力者への世代交代を実現させられなかった憲政本党(改進党系)は迷走し、さらに大きく分裂することになるのである。

この後、衆議院はしばらく4極構造を維持する。左右両極が仲間を増やそうとしたこともあり、積極的な意味を失っていた中立派は、第9回総選挙後、吏党系等と合流することになる。