日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係(⑪)~民党における農と商~

1列の関係(⑪)~民党における農と商~

1899年2月7日付の東京朝日新聞は、憲政本党の多数である「農民派」が、「農民黨」として、市部の独立に反対すべきだとする一方、党費をつかさどる少数派の「商人派」が地租増徴に反対してから商工業者の歓心を失い、運動費どころか維持費にも欠いていたことから、市部独立に賛成しようとしているということを、報じている。誕生した当時の2大民党を比べれば、より郡部中心の自由党系、より市部中心の改進党系という差異が、確かにあった。当時税収の多くが地租であった日本では、農村部から税を取り、近代化に使うという面が大きかった。よって、少なくとも民党の支持者を見れば、農村部の方が、それに反発する急進派、市部の方が、知識層も比較的厚いので穏健派、という傾向がった。しかし自由党系(の星亨)は、足りないところを補うことに積極的であり、また薩長閥と取引きをするため、そして時代の変化に応じるため、穏健派に転じた(減税要求・増税反対から、選挙区への利益誘導にもなる積極財政へ)。対する改進党系は、少なかった議席数を補うために、他の政党、会派と合流した。その中で最も議席数の多かった(改進党系とそうは変わらない議席数であった)立憲革新党は、新民党とし得る者であり、特に2つの前身のうちの1方、同志倶楽部は、自由党系の変化に反発して同党を離党した議勢力であったと言える。改進党系はこの再編によって、やや市部中心という面をかなり弱めた。また再編の前後、自由党系が穏健派となったために野党陣営に取り残され(改進党系は野党色を強めていた)、強硬派の色を強めた。自由党系が党の利益、地位向上へと向かって比較的よくまとまって変化したのに対して、改進党系は、内部に異なる勢力を抱え、それらの間の対抗意識は強かった。

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