1.政権交代論

補足~無産政党~

1905年8月、山路愛山や、社会主義協会(1904年に禁止)や平民社の結成に関わった斯波貞吉、立憲改進党出身(議員としてではない)の中村太郎八が、社会政策の徹底を唱えて、国家社会党を結成した。その綱領(1905年8月20日付読売新聞)は国家主義的であり、国家のための貧者救済を志向する政党であった。その点では、むしろ吏党系に近い面もあり(第6章補足~吏党刷新、帝国党への道~参照)、他の、一般的な社会主義勢力とは異なっていた。1906年2月には日本社会党の党員と普通選挙運動、電車運賃値上げ反対運動を行い、1910年に解散した。第1次西園寺内閣が社会主義をむやみに取り締まらず、穏健なものは善導するという方針を採ったことから、再び無産政党結成の機運が高まった。1906年1月に、西川光二郎が試しに、普通選挙だけを網領に掲げる日本平民党を、堺利彦が日本社会党を結成した。両党は共に認められたので、1月中に合同して、日本社会党を結成した。同党は国法の範囲内で社会主義を主張するとして、取り締まられる事態を回避した。しかし幸徳秋水が帰国すると、議会を通じて運動を進める、現実的な議会政策派(片山潜、西川ら。労働組合が取り締まられず、普通選挙が実現すれば、希望を持ち得る主張であった)と、アナーキスト(無政府主義者)を含む、議会に否定的な、実力行使を辞さない直接行動派(幸徳、大杉栄、山川均ら)の対立が浮き彫りとなった。結局後者が主導権を握り、国法の範囲内という旗を降ろし、1907年2月に禁止された。片山らは同年6月にも日本平民党を結成したが、同月中に禁止となった。彼らはさらに同年8月、社会主義同志会を結成したが、1908年2月に片山派と西川派に分裂した。