日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~中立派の再編~

補足~中立派の再編~

1904年3月17日、衆議院解散当日に中正倶楽部に属していた当選者の全12名、同じく交友倶楽部に属していた当選者10名のうち2名(共に青森県郡部選出の寺井純司、田中藤次郎)、衆議院解散時は交友倶楽部に属していたものの、会派自由党の結成に参加していた1名(栗原宣太郎)、その他の無所属の当選者18名の、計33名が甲辰倶楽部を結成を結成した。その他の18名の内訳を見ると、会派に所属したことのなかった議員が11名(うち初当選が9名)、以前立憲政友会に属していた議員が5名(第2次松方内閣期に自由党を脱し、富山県知事に就任した石田貫之助、衆議院の解散後に立憲政友会を離れたと考えられる小河源一、同党を除名されて政友倶楽部の結成に参加した久保伊一郎等)、壬寅会に属していた議員が1名(片山正中)、第6回総選挙後の中立倶楽部等に属していた議員が1名(佐藤里治)である。かつて壬寅会に属していた議員は、中正倶楽部出身の4名と片山正中、そして交友倶楽部出身の田中藤次郎であった。この、甲辰倶楽部を結成した議員達は、後に多くが大同倶楽部に参加、同派に参加した者を含め、一部が立憲政友会に移ったのだが、そこに、出身勢力ごとの特徴のようなものは特になかった(初当選の天野董平と根津嘉一郎が、憲政本党に移ったのが例外的な動きである)。1904年3月15日付の読売新聞によれば、13日に井上角五郎(元立憲自由党、中央交渉部、井角組、実業団体―第4回総選挙後―、憲政党―分裂後―、立憲政友会、中立倶楽部)の自宅で、福地源一郎(元立憲帝政党―帝国議会開設前―)、武藤金吉(帝国議会開設前の自由党の出身、田中正造の推薦を得て初当選)らが有力な中立団体の組織を協議したが、尾崎行雄らの中立各派と交渉して決定することとした。結局、尾崎は同志研究会の後継といえる無名倶楽部を結成し、彼らと行動を共にすることはなかった。井上と武藤は無所属から、福地は有志会を経て、いずれも大同倶楽部の結成に参加した。つまり、第1次桂内閣寄りの議員達が、新民党を加えて、より大きな会派を形成しようとしたものの、失敗したのであった。

甲辰倶楽部の議席数は33と、衆議院解散当日の中正倶楽部を1上回った(議席占有率も微増)。そして結成の翌々日(19日)に6名の参加を得て、総選挙後初の議会であった、第20回帝国議会の開会当日(3月20日)には、39議席の第3会派となった。新たに加わった議員達6名のうち、初当選の2人を含む3名が初めて会派に所属し、沢田佐助、森秀次、横田虎彦の3名が、交友倶楽部の結成より後、衆議院の解散までに立憲政友会を離党し、無所属であった議員達であった。その後の所属の傾向については、結成時の33名と同様である。

甲辰倶楽部結成の翌日にあたる3月18日、同志研究会出身の当選者10名中の8名、その他の無所属の当選者14名が無名倶楽部を結成した。衆議院解散当日の同志研究会の議席数を3上回る、22議席であった。なお、同志研究会出身の当選者10名中の、他の2名は、立憲政友会から当選した斎藤和平太(1903年12月23日付東京朝日新聞。日付については報じられていないが、「今回政友會に加入したり」とある)と、無所属に留まって大同倶楽部の結成に参加する城重雄である。無名倶楽部の結成に、河野広中と秋山定輔が加わっていることが目を引く(本章新民党(①②)~同志研究会の発展~参照)。

甲辰倶楽部に参加しなかった交友倶楽部出身の当選者達を見ると、総選挙前に会派自由党に移っておらず、甲辰倶楽部の結成にも参加しなかった6名中の5名までもが、いずれかの段階で新民党(同志研究会→無名倶楽部の系譜)に加わっている。その5名とは、立憲政友会入りする、壬寅会出身の宮古啓三郎を除く、秋山定輔、大竹貫一、富島暢夫、萩野左門、三輪信次郎である(大竹と萩野は新潟進歩党、富島は立憲政友会出身)。交友倶楽結成時、立憲政友会離党者は26名中の11名であった(結成後の加盟者2名の中に立憲政友会離党者はいない)が、うち4名が会派自由党の結成に参加、残る7名のうち、第9回総選挙で当選したのは寺井純司と富島暢夫だけであった。旧交友倶楽部系において立憲政友会離党者の比率は大きく低下していたのである。寺田は甲辰倶楽部に、富島は無名倶楽部の後継会派の同攻会に参加した。しかし両者とも、立憲政友会に復党した(富島は再び立憲政友会を離れ、維新会、新政会、清和倶楽部に参加する―第13章で見る―)。なお、吏党の系譜から立憲政友会に参加した早川龍介は、第10回総選挙以後度々当選し、交友倶楽部を経て復党した立憲政友会を再度離党、立憲同志会の結成に参加する。

同志倶楽部出身の、交友倶楽部系の当選者も2名であった(同志倶楽部から交友倶楽部に参加したのは7名であるから分母は小さい―交友倶楽部結成後の加盟者に同志倶楽部系はいなかった―)。旧新潟進歩党系の大竹貫一と萩野左門である。彼らはまずは無所属に留まり、それから新民党の系譜に加わった。

交友倶楽部についてまとめると、同派に所属したことのある議員28名のうち、後にどの会派にも加わっていない議員が14名、全員が第9回総選挙で当選していない。会派自由党に移る議員が4名(うち1名は第9回総選挙で当選しておらず、会派自由党で議員生活を終えている)、甲辰倶楽部に参加する議員が3名(うち1名は会派自由党を経ており、上の4名に含まれる)、他の会派を経ずに立憲政友会に移る議員が2名、有志会を経た1名を含め、新民党の、同志研究会系に移る議員が5名である(ただし1名は後に立憲政友会へ)。会派自由党、甲辰倶楽部に参加した全6名(第9回総選挙で当選していない1名を除く)が大同倶楽部に参加しており、他に1名、他の会派を経ずに大同倶楽部に参加している議員がいる。つまり、交友倶楽部出身の当選者のうち一部は会派自由党に移っているが、彼らを含めて、比較的多くが大同倶楽部に参加している。そしてそれとほぼ同数が、新民党の同志研究会系に参加している。ただし甲辰倶楽部を経て、大同倶楽部、立憲政友会と歩む議員が2名、自由労を経て大同倶楽部、立憲政友会と歩む議員が1名おり、立憲政友会に移る議員は合計で6名と、重複するものの、大同倶楽部に参加する議員と同数である。しかも重複する場合、最終的には立憲政友会に移っているのであり、立憲政友会に入復党する議員が最も多いのだと言える。その場合も、次に多いのは同志研究会の系譜に移る議員だということになる(立憲政友会に移る、つまり上の6名に含まれる1名を除くと4名)。立憲政友会の出身者では会派自由党に移る議員が比較的多く、彼らも含めて、復党する議員が比較的多かった。立憲政友会に移った6名のうち5名は、もともと立憲政友会の出身であった(他の1名は壬寅会出身の宮古啓三郎)。同志倶楽部(第7、8回総選挙後)出身者等、立憲政友出身者以外を見ると、新民党の同志研究会の系譜に加わった者が多い。以上のことから交友倶楽部は、立憲政友会の離党者と、対外強硬派の連合体という面の大きい、全体的には姿勢の曖昧な会派であったことが、よく分かる。

第21回議会閉会の際、協議の末に甲辰倶楽部の存続が決定された時、これに反対の寺井純司、田中藤次郎、石田貫之助が同派を離脱した。寺井と田中は、後に大同倶楽部の結成に参加した(寺井はさらに後に立憲政友会に復党)のに対し、石田は無所属のまま議員生活を終えた。3名とも立憲政友会の出身であったが(ただし田中藤次郎は、立憲政友会所属の衆議院議員であったことはない)、同党出身者が皆、甲辰倶楽部の存続に反対したわけではない。

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