日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~日露戦争のための増税と各党派~

補足~日露戦争のための増税と各党派~

各党、会派の戦費のための増税等に関する主張は、当時の新聞報道によって、その多くを知ることができる。第20回帝国議会(特別会)は開戦後初の帝国議会であり、政府は地租、営業税、所得税、砂糖消費税、醤油税、登録税、取引所税、狩猟免許税、鉱区税、各種輸入税の引き上げ、塩、毛織物、石油、絹布の消費税の新設、民事訴訟の印紙の引き上げ、煙草製造を政府の専権とし、販売も統制する案を提出した。これらに関して、帝国党と甲辰倶楽部については分からないのだが、その性質から、帝国党は基本的には政府案に賛成であったと思われるし、甲辰倶楽部の第1次桂内閣寄りの議員達も同様であったと考えられる。ただし甲辰倶楽部は中立的な会派であったから、必ずしもそうでない議員もいて、会派としてのまとまった主張は、なかったのだと考えられる。他の会派について総括すると、塩と絹布の消費税について各会派とも反対であり、各会派が賛成していた醤油税については会派自由党が反対していた。憲政本党と無名倶楽部は、他が賛成していた毛織物消費税に反対、憲政本党は他が賛成していた石油消費税に反対していた。そのような中、衆議院では塩と絹布の消費税の新設をやめて砂糖と石油の消費税を上げ、戦時税であることをより明瞭にする修正が行なわれ(毛織物消費税は委員会では取りやめと修正されたが本会議でそれが否決された)、成立した(貴族院では、修正による不足分を煙草の専売で補うという桂首相の答弁を経て、衆議院の修正が受け入れられた。-地租は本来3.3から2.5%に戻るところ4.3%に。ただし市街宅地租8、郡村宅地租は6%に-)。

注目すべきは、無名倶楽部が地租、営業税、所得税について累進法の導入を主張、台湾事業公債法中改正法律案(大地主の大租権-小作料を採る権利-を買い上げるための公債増、成立)、貯蓄勧業債権法案(政府が日本勧業銀行に貯蓄債券を発行させられるなど。衆議院で貯蓄債権法への改題、償還時に付与し得る割増金の率を限定する等の修正がなされて成立)について反対したことだ。同派は、反対した部分については政費節減、一時借入金で支弁するとした。特に同派の鈴置倉次郎は貯蓄勧業債権について、国民の射倖心(幸運、利益を得たいと願う心)に依頼して債権を募集する、国民の愛国心を侮辱するものだと、また軍事費に目的を定めていることから、勧業債権ではなく懲業債権であり、実業、経済の発展を妨害するものだと批判した(『帝國議會衆議院議事速記録』一九46~47頁)。同志研究会の系譜が、国民の負担増に否定的であり、平等重視であることが分かる。中小の実業家の立場にも立ち得る勢力であったが、後述する通り、煙草専売制については、一般の国民を立場に立った。

前山良吉氏は煙草専売法可決の経緯に、甲辰倶楽部の独自性を見出した(前山亮吉「甲辰倶楽部と日露戦時議会」)。専売に伴う煙草業者への補償について、政府原案が所得高の3年分であったものを、第1次桂内閣と2大政党の協議により、4年分に修正する方向となったものの、世論の反発を受けて立憲政友会が動揺し、2大政党が原案支持に転じた。この当時、三七倶楽部(本章第3極実業派の動き2大民党制(②④⑥)参照)を結成しようとしていた田口卯吉の一派が、原案賛成を2大政党に働きかけている(1904年3月23日付東京朝日新聞。「三七倶樂部における田口島田の諸氏」が主語となっている)。さらに衆議院の委員会では2年分に修正され、桂首相が原敬と大石正巳に原案支持を求めたものの、憲政本党の東尾平太郎、福井三郎、甲辰倶楽部の本出保太郎、久保伊一郎、無所属の大竹貫一(後に同志研究会系と合流)が議事の延期に異議を申し立てたために急遽審議され、委員会の修正通り本会議で可決された。前山氏はこの件、上で見た第20回帝国議会における議長選挙の件から、「小政党の集合である中立勢力は重要案件でキャスティングボートを握り大政党をおびやかす力を有していたのである。甲辰倶楽部はその一角であった」としている。しかし煙草専売の補償が2年分とされたことについて、中立勢力が流れを変えたこと、中立勢力がキャスティングボートを握っていたことまで、確認することはできない。委員会等で3年分の維持を主張し、他の勢力にも働きかけを行っていたことが、委員会の議事録、報道を基に述べられているが、それでも中立勢力の動きと、2大政党内の執行部の意向に反する動きのどちらが主であったのか、判別することは難しい。第2読会で2年分とすることを主張したのは無名倶楽部(同志研究会の後継)の高橋安爾であった(『帝國議會衆議院議事速記録』一九43頁)。ただし、中立勢力が第1次桂内閣の言いなりではなかったこと、各勢力に働きかけをしていた煙草業者よりも、一般の国民の声を代表していたようであることは重要だ(補償額が大きくなれば、それは何らかの形で納税者の負担に加わるのだし、戦争のために皆ががまんしているのだと言うこともできる)。ただし大畑哲『かながわ自由民権探索』194頁によれば、甲辰倶楽部の栗原宣太郎は、煙草専売法に反対する煙草耕作農民に強い支援を与えている(1903年11月27日付横浜貿易新聞の記事が根拠として挙げられている)。

日露開戦後初の通常議会であった第21議会では、公債発行等を内容とする臨時軍事費支弁に関する法律案や、地租、営業税、所得税、酒税、砂糖消費税、醤油税、登録税、取引所税、狩猟税、鉱業税、売薬営業税、印紙税、輸入税の増税、小切手印紙税、砂金採取地税、通行税、織物消費税、米及び籾輸入税、行政訴訟の印紙税の新設、戦後も存続させることが前提の、相続税新設と塩の政府専売化(戦後も存続)に関する法案が成立した。当時の報道や議事録を基に内閣、各党の立場を整理すると次のようになる(報道は主に1904年12月7日付~10日付読売新聞、11日付東京朝日新聞。議事録についてはその都度示した)。ただし会派自由党、有志会については分からない。有志会との関係では、市部選出の議員達が、織物税と塩専売反対を決議したということは報じられている(1904年11月25日付東京朝日新聞。出席議員は30余名)。同派の要人であった田口卯吉は、産業の衰退を招くとして、織物税などに反対し、所得税の増税で戦費を賄い、様々な物にかけられた関節税、専売を廃止することを主張した(例えば『鼎軒田口卯吉全集』第6巻527~531頁)。

政府の原案が市街宅地租25.5%、郡村宅地10.5%、他3.6%であった。地租増徴については、立憲政友会が市街宅地租25%、憲政本党、同攻会、甲辰倶楽部、帝国党が20%、郡村宅地租は立憲政友会が11%、憲政本党と同攻会が8%、甲辰倶楽部と帝国党が10%、他の土地については立憲政友会が5.5%、憲政本党と同攻会が5%、甲辰倶楽部と帝国党が5.5%を主張した(結局市街宅地租17.5%、郡村宅地5.5%、他3%に)。ここに各会派の決定的な差異を見出すことはできないが、憲政本党と同攻会が一致していることが興味深い。多くの会派が政府案に賛成であったのは、営業税、所得税(憲政本党は300円~500円の所得に対する3割増税を廃することを主張)、酒税(立憲政友会は酒税増税をビールに限ることを主張)、砂糖消費税、醤油税、登録税、取引所税、売薬営業税の増税、相続税の新設(憲政本党が賃貸価格の20倍という政府案を15倍に、「百萬圓に至て止む」を千萬円に改めることを主張、同攻会の主張は不明)、狩猟免許税(同攻会は増税幅を1等50円、2等30円、3等は増税なしとすることを主張)、訴訟印紙税(甲辰倶楽部が記載金高千円未満3銭、千円を増す毎に2銭とし、行政訴訟印紙廃案)であった。

輸入税については、立憲政友会が米籾を政府案より5分低い1割とすることを主張、同攻会が米籾の全廃を主張する議員があり、賛否が同数の状況であった(甲辰倶楽部にも同じ意見、1割減とする意見があったが、1票差で政府案賛成に決した)。通行税については、憲政本党を除く各会派が1~3等のうち、1、2等における大幅な引き上げを主張していた。政府案が15%であった織物税については、同攻会が反対、憲政本党が7.5%、帝国党が10%を主張、会派自由党が2円以下の免除を主張、立憲政友会が政府案に賛成であった(甲辰倶楽部については不明)。塩の専売化については、立憲政友会、帝国党、甲辰倶楽部(反対が3名いた)が賛成、同攻会が反対(妥協案となり得る塩消費税の新設にも反対)、憲政本党は、政府の収入率の半減を主張。

各勢力に、それぞれの志向に基づいた差異があったとは言い難い。日露戦争のヴェールに覆われた衆議院から、第8回総選挙後の混乱の影響を見て取ることは難しい。しかし同攻会、有志会には一般の国民に配慮した主張が、政府の法案の不備を指摘する主張と共にみられる。それらは法案の修正等に行かされることはなかったが、代表的なものが、同攻会の塩専売、塩消費税の否認、会派の意見とはならなかったものの、米籾の輸入税無税の主張である。同派の望月小太郎は、多くの学生、生産労働者が用いる25里以下の3等について免除する修正を加えようとした(『帝国議会衆議院議事速記録』二〇61頁)。当時無所属で、彼らと合流する政友倶楽部出身の板倉中も、必需品の塩に税をかけることを批判した(同72頁)。また軍備補充、臨時事件費支弁のため発行する国債について、その最低発行価格を再建の価格として計算できることとする法案(国際証券価格計算に関する法律案)について、同派の早速整爾は、所有者が破産した場合、債権者に損害を与えるなどとして反対し、やはり同派の加瀬禧逸も、反対の立場から発言をした(同105~107頁)。加瀬はまた鉱業法案について、鉱業と関係する官吏が在職中に鉱業関連の社員となり得ることを問題視して修正動議を出した(同172頁)。

有志会でも、島田三郎が米籾の輸入税無税を主張した(同64頁)。島田は、米の輸入が国産の米の不足のためではなく、高価な日本米を売って廉価な外国産の米を食料にしているためであり、輸入米の値が上がることは地主を肥やし、小作人、細民を苦しめると主張した。島田はまた、塩の専売、下記の通り、輸入繭に対し、従価一割の輸入税を課すことが大政党の要求で決まったことに反発し、政府が多数党に譲って、少数である中産階級以上の課税を薄くし、大多数の、しかも徴兵に服している生計が最も厳しい層に多くの消費税を掛けることを批判した。地主層の地租負担増を重視する島田の姿勢は、田口卯吉と同様に、以前より一貫していた。なお、12月6日付の東京朝日新聞によれば、5日に市部選出議員30名が織物税反対や塩専売化反対を決議している。市部選出議員による会派だと言える有志会の、他の議員について見る。浅野陽吉は織物税について、織物が米に継ぐ産物であり、小作人と中産以下の農業経済に不利益だとして反対した(同62~64頁)。なお浅野は、関税について産業保護政策というよりも、歳入確保の面を優先しているという批判をした議員である。大縄久雄は、「私ハ現政府ヲ最モ信ズルモノデゴザイマス」としつつ、増税が農、商、工業に影響を与え、公債応募にマイナスに働くという見方を示し、増税でなく公債で賄うことを主張した(同60頁)。田口は市街宅地租の政府案について、収入以上の課税となる危険があることを主張した(同60頁)。さらに鈴置倉次郎は、小切手印紙税について、現金取引が増えて金融界に激変が起こり、銀行が国債の募集に応じられなくなる、あるいは応じて討ち死にするとして、憲政本党が賛成に転じたこと、他の賛成する諸会派を批判した(同60頁)。

注目すべきは、ここで挙げた有志会の全議員、本会議で積極的に発言していた有志会員の多くが、同攻会系と合流して、政交倶楽部を結成したことである。つまり同志研究会の系譜、本稿でいう新民党と合流したということである。すでに市部の議員を比較的高い率で含んでいた同攻会に、さらに市部選出の議員達が加わり、それまでの地主層の代弁をする大政党、薩長閥とつながっていた吏党とは違う、自由主義の中での左派とし得る、野党的な都市型の勢力が初めて、かつ徐々に形成されていったのが、この当時なのである。第2次大戦後も都市部は、保守の優位政党に対抗する野党、その中でも、新しい政党が比較的多くの票を得てきている)。またそれよりも前、1904年12月28日には、花井卓蔵が同攻会に加わっている。花井は人権派の弁護士で、当時までに第6、7、9回総選挙で当選していたが、第6回総選挙後の中立倶楽部に属した以外は、無所属であった。第6回総選挙後には河野広中らと男子普通選挙法案を提出する進歩的な議員で、政党に属そうとはしなかった。左の極は強い仲間を得たが、政党化は困難であったのだ。

最後に会派自由党については、市街宅地と郡村宅地については地価修正を主眼とし、それ以外は5分8厘、米籾輸入税全廃、織物消費税一部修正、相続税は増率、通行税等他は概ね政府案を支持しようとしていたことが、伝えられている。米籾輸入税全廃の主張が気になるが、背景は分からないし、これに関する帝国議会における発言を確認することはできない。

増税に関する法案は12月17日、主に下のような増減に関する修正等がなされた他、相続税や塩専売について一定の修正が加えられた上で、衆議院を通過、成立に至った。

・地価を上述の通り政府案より低減。

・毛織物以外の織物消費税を政府案より低減。

・麦酒税引き上げ、砂糖消費税を政府案より増率。

・輸入繭に対し従価一割の輸入税を課す。

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