日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補足~日比谷焼き討ち事件から政界革新同志会の結成まで~

補足~日比谷焼き討ち事件から政界革新同志会の結成まで~

講和について、日本の全権が提示したものが報じられると、対露同志会、桜田倶楽部、江湖倶楽部、同志記者倶楽部などの対外強硬派が講和問題同志連合会を結成、これに反対する決議をなした。そしてこれを実行する方法として、東京で国民大会を開くこと、檄文を全国に飛ばすこと、上奏をなすこと、遊説などの言論の力で条約破棄に努めることなどを決議した。また委員8名を選んだ。そのうち衆議院議員は大竹貫一(元大日本協会・政務調査所、大手倶楽部、進歩党、新潟進歩党、交友倶楽部等、当時は無所属。後に政交倶楽部~又新会、中正会、憲政会、革新倶楽部等)、小川平吉(元立憲政友会、同志研究会~又新会、後に立憲政友会)、この当時は非議員で、前後に衆議院議員であった(になる)者は、細野次郎(元壬寅会、後に又新会~亦楽会)、高橋秀臣(後に立憲民政党)、村松恒一郎(憲政本党→又新会→無名会→立憲国民党→純正国民党→新政会→立憲民政党)であった。対露同志会の流れを汲んではいたが、当然ながら帝国党等、第1次桂内閣支持派、同内閣寄りの勢力は加わっていなかった(註)。

講和条約調印の前日にあたる9月4日、講和問題同志連合会を代表して河野広中が、27名と共に連署した、条約の破棄、革新の弾劾を、願う上奏分を捧呈する手続きを宮内庁で行った。そして9月5日の調印当日、政府に禁止される中で、講和問題同志会主催の国民大会が開かれた。警察は、会場として予定されていた日比谷公園を封鎖したものの、中に入られ、大会の開催を防ぐことができなかった。公園では河野が大会の会長となり、決議案を朗読、山田喜之助(元憲政本党衆議院議員、1904年10月に離党届を提出しているが理由は明言していない-10月28日付東京朝日新聞―)、大竹貫一が演説をした。その後、警官隊と衝突した群衆が、山県-桂系寄りの国民新聞社を襲撃したり、内務大臣官邸に火を放ったりした。騒擾は6日の夜まで続き、警察署や派出所も焼かれた。高橋秀臣、細野次郎、村松恒一郎らは兇徒嘯聚(集団での暴行)教唆罪で告発されたが、起訴されるに至らなかった。また河野、大竹、小川、山田らも、11月11日に兇徒嘯聚罪で拘引されたが、1906年4月に無罪が確定する。以上は当時の報道や、河野広中の伝記の、「磐州の實話」、つまり河野の述懐とされているものを含めた記述(中山義助編『河野磐州傳』下巻664~706頁)、小川平吉の回顧録(東亜同交会編『続対支回顧録』下巻1127~1129頁)を筆者がごく簡単に整理したものである。河野の伝記の記述には、他に卜部喜太郎(猶興会に参加後、後継の又新会から立憲国民党の結成に参加)、加瀬禧逸(同攻会に参加し、公正会まで同派の系譜に所属)、肥塚龍(立憲改進党から憲政会まで改進党系に所属)、高野孟矩(元台湾総督府高等法院長―第4章⑫参照―後に戊申倶楽部衆議院議員)、日向輝武(同志研究会から同攻会まで同派の系譜に所属、その前後は立憲政友会所属)、山口熊野(同志研究会から又新会まで同派の系譜に所属、その前後は立憲政友会所属)らの名が関係者として出て来る。河野の述懐は、日比谷公園の管理者であった東京市長に、彼が交渉したとしているが、当時の市長は尾崎行雄であった。小川の回顧録には、小泉又次郎(次の第10回総選挙で猶興会から当選して亦楽会まで同派の系譜に属して立憲同志会の結成に参加)と卜部が事件当日、電柱に縛り付けられていたことが記されている。ちなみに卜部は、1906年8月15日付の大国民において、軍備の緊縮を強く唱えている。名が挙がっている衆議院議員(経験者)達を見ると、同志研究会の系譜が、後にそれに加わる議員達も含めて、中心にあったことを確認することができる。

9月8日付の読売新聞によれば7日、旧同攻会系の有志十数名が、講和条件に一つも条理が見られないこと、国民威圧の暴虐を黙過できないことから、閣臣引責の弾劾上奏を提出することを決めた。それから2ヶ月半以上後の11月28日付の同紙は「中立團体硬派中の硬派たる」同攻会の安岡、藤崎、山口らが、同派を中心に、第1次桂内閣に絶対反対の政党を組織しようと計画し、熱心に同志を勧誘中であるものの、同攻会員以外、賛成者が数名に過ぎないと報じている。12月29日付の萬朝報は,同攻会、有志会、無所属の自称健全分子が会合したことを伝えている。12月13日付の読売新聞は、国民倶楽部の所属代議士河野、大竹、小川の諸氏が、立憲政友会、憲政本党その他各問責派の連鎖となり、十分力を尽くす考えで奔走中だが、無所属、旧同攻会の代議士と気脈を通ずる必要があるとして、近々懇親会を開くらしいということを伝えている。国民倶楽部とは、条約批准を機に講和問題連合同志会を解散し、目的を内閣弾劾に切りかえて活動するため、結成されたものである。その参加者のうち、当時衆議院議員であった、あるいは第10回総選挙後に衆議院議員となる者達の多くは、同志研究会の系譜に参加していたか、加わっていったと考えられるから、ここでは特に取り上げない。また当時講和問題連合同志会の参加者によって、社交クラブとして維新倶楽部も結成されている。この双方、憲政本党非改革派の院外の勢力を含めた、同志研究会の系譜や、院外のそれに近い諸勢力は、1907年3月5日に政界革新同志会を結成した。

註:酒田正敏氏は、四派連合が、日露開戦を名目として対露同志会の活動を放棄し、会に出入りしなくなったことしている(酒田正敏『近代日本における対外硬運動の研究』272頁。四派連合(第8章(準)与党の不振(①④)参照)は、第9回総選挙後は帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部、無所属の第1次桂内閣支持派という構成になったのだと言える。第1次桂内閣寄りの勢力であり、講和問題連合同志会に関する酒田市の研究(同279~307頁、様々な史料、研究を見ても、彼らが講和問題連合同志会に参加したことを確認することはできない。なお、酒田氏が指摘していることだが(同278頁)、帝国党が9月18日に、内閣の更迭、他党の動揺に頓着せず、一意専心戦後経営に尽力すべきだという佐々友房の意見を了承したことが、『立憲政友會史』第2巻250頁に記されている。

Translate »