1.政権交代論

野党の勝利・2大民党制・(準)与党の不振・第3極(①)~第9回総選挙の結果~

第9回総選挙の結果を見る。議席の増減は、第9回総選挙へとつながる、第19回帝国議会における衆議院の解散当日(1903年12月11日)との比較による。ただし、会派自由党は同日にまだ結成されておらず、結成時の議席数が『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部に記されていない。会派自由党は、政党として正式に結成されることなく、会派に留まったまま解散したと言えるため、ここでは発起人総会をもって会派自由党が誕生したと捉える。結成時のメンバーについては、発起人総会について報じた1903年12月22日付の東京朝日新聞にある、加盟が決定した前代議士のリストに準ずる(その後、訂正、参加取り消し等の報道はない)。

立憲政友会は、123から128に増えた(初めて総選挙が行われた3つの1人区のうちの2つで計2議席を得た)。憲政本党も82から91に増え、第7回総選挙後の水準に戻った(とは言っても、過半数に迫っていた結成当初はもちろん、定数の3分の1を超えていた三四倶楽部分裂前より低く、4分の1にも届いていない)。政党等の勢力よりも、人物を中心に選ぶ傾向が強かったため、分裂後の勢力分野が比較的維持されやすいという面もあったと言えるだろう(離党した人物がいれば、次の選挙で、その人物が後にしてきた勢力の候補ではなく、その人物に投票する有権者が多かったのではないだろうか、ということである。そうであれば、離党者が複数出た場合、それで減った議席を選挙で回復することは難しいのである)。帝国党も、18から17議席へと減りはしたが、現状維持とし得る。前回の総選挙から日が浅かったこと、戦時下の挙国一致的な風潮では、状況が大きく変わることは考えにくかったとは言え、山県-桂系の政権であり、かつ2大政党が共に動揺しており、さらに対外硬派の主張の通り開戦に至ったという、順境にあった吏党系が、独力で議席を増やしていくことが出来ないことが、示されたという面もある(秋田県郡部と大分県郡部ではそれぞれ唯一の候補であった前議員が落選している。これは小さな帝国党では無視できない。また、国民協会、結成当初の帝国党と違い、所属議員の数を大きく上回る候補者を立てたということもない。これは以後も変わらない)。ただし、第1次桂内閣寄りの当選者が他にもいたし、再編によって拡大することには、十分望みを持つことができた。

無所属議員は衆議院の解散当日77名であった。会派自由党は結成時38議席であり、そのうち解散当日交友倶楽部に属していた2人を除く36名が、解散当日はまだ無所属であったから、77から36を引いた41が、会派自由党参加者を除いた無所属議員の数である。これが総選挙で120議席に増えた、というのも不正確である。中正倶楽部、同志研究会、交友倶楽部は総選挙前に消滅したから、総選挙前無所属の41に、この3会派を合わせた117議席(重複はない。中正32、交友25、同志19)が、120議席になったとしなければならない。つまり選挙の結果は、選挙前と同水準であった(選挙前の無所属を41と見るなら、第9回総選挙後に無所属の当選者が会派を結成した後の、残りの無所属と比べるべきだ。それでもほぼ同水準である―当初は50台、第10回総選挙前には16まで減る―)。もともと多い無所属が、立憲政友会から離党者が続出したことで、ある程度多くなっているということだ(立憲政友会離党者の分だけ増えているというほどでもない)。

衆議院解散当日の中正倶楽部、交友倶楽部、同志研究会の全議員のうち、第9回総選挙に当選したのは、中正倶楽部32名中12名(半数の6名が市部選出)、交友倶楽部25名中11名(解散後に会派自由党に参加したと見られる栗原宣太郎を除外すると24名中10名、11名中でも10名中でも市部選出は2名―北海道区部の当選はなし―)、同志研究会19名中10名(立憲政友会の候補として当選している斎藤和平太を含む。市部選出の当選者は立憲政友会の出身ではない奥田義人のみ)であった。同志研究会のみ、再選された議員の数が、解散当日の半数を超えている。これは第9回総選挙で3分の2を上回っていた2大政党には及ばないものの、帝国党と同水準である(会派自由党は総選挙前の約半数)。会派に留まる勢力では(政党化を目指していた会派自由党を除き)、政党と比べて、総選挙における議員の引退が多いが、同志研究会は、立憲政友会の離党者による、立場の明確な会派であり、再選されようとする議員が多かったのだと考えられる(獲得した票数が多いことから、再選を目指しながら落選したと考えられるのは、岡崎賢次、鎌田三之助、島田糺、松井蔣莊、望月圭介である-戸矢治平と宮崎鏋三郎は票数がわずかであるため、出馬の意思がなかった可能性が高い-。この5名を含めて。18名中15名に議員を続ける意思があったと考えられる)。なお、島田糺と岡崎賢治は、立憲政友会の高知県の選挙本部の意向に反して出馬を決め、彼らを出馬させようと動いた党員と共に除名となっていた。岡崎の立候補には県の商工倶楽部も関わっていた(川田瑞穂『片岡健吉先生伝』847~848頁)。

第9回総選挙は、結成時の38議席から23議席へと大きく減らした会派自由党を除けば、概ね現状維持とし得る結果であった。ただし無所属の当選者が多かったから、準与党の帝国党、帝国党と接近し、事実上は準与党になったといえる会派自由党、そして、野党であることが明確な旧同志研究会等の議員達を除く、無所属の当選者をまとめれば、第5回帝国議会以来、第1、2勢力が自由党系と改進党系ではなく、自由党系(立憲政友会)と吏党系(帝国党を中心とした新党)だという状況になり得た。あるいは、2大政党の議席差が比較的小さくなっていたことを重視して、自由党系、改進党系、吏党系による鼎立状況になり得たと見ることも、不可能ではない。流動的な時代、時代の分岐点であったように見えてくるが、第3党以下を見ると、帝国党が小さく、他は政党ですらなかったこと、吏党系(帝国党)が相変わらず薩長閥(山県-桂系)公認のものではなかったことから、自由党系と改進党系以外の勢力は、やはり不利であった。そして2大民党の系譜の中でも、やはりまだ議席数がある程度多く、分裂によって統一性も高まっていた自由党系(立憲政友会)が有利であった。改進党系全体、または吏党系に、状況を変えようという執念があれば、変えられるチャンスであった。そんな時期だと言えるだろう。