日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(①②)~同志研究会の発展~

新民党(①②)~同志研究会の発展~

無名倶楽部の結成で重要なのは、同志研究会系に、憲政本党を離党した河野広中が合流したということである。河野もさかのぼれば自由党系の離党者だが、新民党の会派を結成したことがある(第4回総選挙後の東北同盟会、第5回総選挙後の同志倶楽部)。このような大物議員の参加は、同志研究会系の新民党としてのカラーを、さらに強くしたのだと言える。無名倶楽部の結成には、奉答文事件を起こしたと言える(第8章第3極2大民党制(⑤~⑦)参照)、交友倶楽部出身の秋山定輔も参加している。河野、秋山が同志研究会の系譜に移って来たことは、同志研究会系の対外強硬派としての性格をも、より強くしたのだと言える。

同志研究会出身者以外で、無名倶楽部の結成に参加した14名のうち8名は、初めて会派に所属した議員達であった(第7回総選挙で当選している早速整爾以外は初当選)。他の6名は河野、秋山、彼らと同じく対外強硬派の竹内正志(中国進歩党、進歩党~憲政本党、三四倶楽部、その後継の同志倶楽部に属していた)、高橋安爾(総選挙前に会派自由党の結成に参加したものの、無所属として当選したと見られる)、菊池武徳(当時、保護貿易政策を唱えて運動をしていた―1903年10月30日付読売新聞―。東京朝日新聞では憲政本党となっているが、読売新聞等、無所属とされている史料もある―厳密には読売新聞は「中立」としているが、無所属とほぼ同義である―)、第2回総選挙で当選し、中央交渉部に属した安岡雄吉(後藤象二郎系であり衆議院議員でなかった時期に国民自由党に所属)である。

詳しくは本章第3極実業派の動き(①②)で見るが、同志研究会の系譜は、市部選出の議員を比較的多く吸収した。これまで見た通り、初当選の無所属議員のうち、会派に参加する者達は通常、中立的な会派に参加するのだが、第9回総選挙後に限っては、そうでない議員が少なからずいたのである。その要因は分からないが、日露開戦後であり、同志研究会の系譜にあった、真正の(内閣の外交をそのまま支持する吏党系とは違う)対外強硬派として支持を得たこと、市部では既成政党、薩長閥と近い吏党系の支持、浸透が郡部ほどではなかったことだと想像される(市部ではもともと無所属が強く、政党化する前は吏党系も強かった。補論⑤㉕参照)。ここに、新民党(同志研究会系)に立場が近い(あるいは実際につながりがある)、無所属候補が当選する余地があったのだろう。

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