第20回帝国議会の開会当日、3月20日の各会派の議席数と、そのうち市部が何議席分あるのかを見る。北海道の3区(札幌区、函館区、根室区)は市部に含めなかった。
立憲政友会 130(市部20)
憲政本党 91( 12)・・・東京市(定数11)で4議席を獲得し大阪、神戸でも当選者
帝国党 19( 3)
会派自由党 21( 4)・・・宮部襄の離脱で3に。
甲辰倶楽部 39( 13)・・・大阪市4、京都市2、名古屋市全2。
無名倶楽部 24( 9)
無所属 55( 12)・・・宮部の会派自由党離脱で13に。東京市3。
合計 379( 73)・・・定数の約19.3%が市部
(北海道の3区を含めると約20.0%)
以前ほど、全体と比べた、市部選出議員の偏りが大きくないことが分かる。立憲政友会の市部選出議員の割合は、第18回帝国議会の会期終了日(1903年6月4日)と比べ、約15.5%から約15.4%とあまり変わっていない。憲政本党は約10.7%から約13.2%、帝国党は約11.8から約15.8%へと向上している。他方、中立実業派を見ると中正倶楽部が約64.5%であったのが、甲辰倶楽部が約33.3%へと大きく低下している。新民党の無名倶楽部は約37.5%と、同志研究会出身者の支部での当選は1名に過ぎないものの、2大政党、吏党系よりかなり高い水準である。以前の中立実業派と比べると低いものの、同じ第9回総選挙後の中立実業派より高い。衆議院解散当日の同志研究会は19名中4名(約21.1%)が市部選出であったから、その割合を増やしたといえる。これはどういうことだろうか。
新たに導入された市部の選挙区の当選者等が結成した、厳正中立の壬寅会を、第1次桂内閣寄りにリニューアルしたのが中正倶楽部であったという面がある(第8章第3極・実業派の動き(②)参照)。そのリニューアルで、市部選出議員の割合は(むしろ)高まった。しかしそこに郡部中心(結成時26名中市部選出は5名のみ)の交友倶楽部が合流し、さらに無所属議員が多く加わったのが甲辰倶楽部であった(とは言っても、交友倶楽部出身の甲辰倶楽部所属議員は、会派自由党を経た1名を含めても、3名に過ぎなかったが)。結成時の甲辰倶楽部の議員33名のうち、同派が所属する初めての会派であったという議員は、芦田鹿之助、天野菫平、井上與一郎、大井ト新、大戸復三郎、是永歳太郎、内貴甚三郎、南條吉左衛門、根津嘉一郎、浜田国松、星野長太郎の11名だが、このうち市部の選挙区の選出は、岡山市の大戸、京都市の内貴だけである。結成後の加盟者は、第8章優位政党の分裂・実業派の動き・野党に対する懐柔、切崩し(④)で見たように、山県-桂系が立憲政友会を切り崩した、大阪府内から選出された6名であり、このうちの4名が市部の選出であった。彼らの参加がなければ、市部選出は9名(大阪市部、郡部は0)に過ぎなかった。その9名のうち2名も、山県-桂系の切崩しによって立憲政友会を離党したと見られる議員達であるから、同党の市部を切り崩す山県-桂系の手法は、一定の成果を上げていると言えるのだ。他に、市部選出議員をまとめたのが、旧同志研究会系と、後述する田口、島田であった。前者は大きな変化であったと言える。旧同志研究会系等によって結成された無名倶楽部では、結成時の22名中、8名が市部の選出であったが、そのうちの6名が初当選であった。つまり無名倶楽部の約27.3%が初当選の市部選出議員であった。これは衆議院全体における市部の比率より高い。そして同志研究会のそれよりも高い(同志研究会は21名中4名―北海道の区も含めると5名―が市部選出であった)。これまで見てきた通り、初当選の無所属のうち、会派に参加する議員達は通常、中立的な会派に参加するのだが、第9回総選挙後に限っては、そうでない議員が少なからずいたのだ。さらに有志会の一部と合流した政交倶楽部は、結成時36議席のうち、3分の1を超える、約36.1%の13名が、市部の選出で、その中の5名が有志会出身であった(その有志会は、結成時17名中、13名が市部、2名が北海道区部、その後20名中14名が市部、2名が区部という高率であった。しかしまとまりを維持できず、吏党系と合流する議員達、新民党と合流する議員達、それより少数の、立憲政友会に加わる議員達に分かれた)。
中立実業派が都市部中心の勢力だという面を弱め、新民党と共に、他よりも市部選出議員の割合が高い会派、という性格のものとなった(実業家が比較的多く、弁護士や医師などが含まれるという傾向に大きな変化はなかった)。そして中立派から新民党への一定のシフトが市部で起こった結果、かつては市部の代表という面を持っていなかった新民党が、そのような面を持ったのである。ただし、有権者の志向の変化によるものだと安易に考えることはできない。甲辰倶楽部の議員も無名倶楽部の議員も、総選挙は無所属として戦っているからだ。だからここではあくまでも、当選者の志向の変化であったとするにとどめたい(同一人物が変化したという意味ではない)。