1.政権交代論

第3極・実業派の動き・離党者の性質・新民党(③他)~甲辰倶楽部の性格~

前山良吉氏は、中正倶楽部と交友倶楽部が合流したのが甲辰倶楽部だとされてきたことに関して、交友倶楽部の出身者が3名(会派自由党を経た1名を含む)と少ないこと、立憲政友会の離党者が多いことを示した上で、政界再編運動の際に、立憲政友会離党者の石塚重平らと会合していた、中正倶楽部の森茂生、高梨哲四郎、矢島浦太郎、佐藤虎次郎が甲辰倶楽部に参加していることから、この人脈が甲辰倶楽部結成の基礎になったとしている。また、小河源一の立憲政友会離党の理由から、奉答文事件(第8章⑦、第3極2大民党制(⑤~⑦)参照)への対応を、同派結成の背景として見る(註1)。そして甲辰倶楽部を、「中正倶楽部の中立議員と政友会脱党者と新人議員の集合体であった」とする(同120頁。より具体的には、「政友会の幹部専制などに不満を持ち脱党したヴェテラン議員と政界再編成を目論む中立議員と西日本出身の代議士歴の浅い実業家議員とが中心となって結成した」としている-同121頁-)。

かつて中央交渉部が分裂した際の、国民協会不参加者を源流に持ち、連続当選の志向が既成政党より弱いため、総選挙の度に議員を大幅に入れ替える中立実業派(吏党系と中立派は元来西日本に多かった―『補論』⑤参照―)が、政党を基盤としない内閣に否定的な議員達が仕組んだ奉答文事件を受けていることで、そのような内閣の是非を問うことと事実上同義になった奉答文再議の是非について(是が内閣支持、非が不支持)、新民党を結成する者を除く立憲政友会の離党者、帝国党と共に賛成したことで、一つのまとまりになったものが、甲辰倶楽部であった。甲辰倶楽部の、おそらく多くが政党化を志向してはいなかったこと、同じ立憲政友会離党者とは言っても、かつての自由党系の主流派、中心を経験している勢力である土佐派や関東派と、山県-桂系に切り崩されたと見られる議員もいる、甲辰倶楽部内の立憲政友会離党者では、異なるところも少なくないことから、甲辰倶楽部と会派自由党との一体化は容易ではなかった。自らを政党化せず吏党系と分立することで、中立派として正当性を保とうとしてきた中立実業派、つまり甲辰倶楽部と、吏党系との一体化も決して容易ではなかった。

前山氏は、甲辰倶楽部の重要議案に関する決定について、修正意見が明確に示されていることから、政府案への全面的賛成が常態である政府党とは、一線を画していたとする(同135頁)。筆者は、同派を中立実業派としており、吏党系と分けているくらいだから、これに同意する。大成会、中央交渉部と歩んだ吏党を、筆者が分裂したと捉え、政党化へと進んだ本流(国民協会→帝国党。政党化が実現したのは、第2次伊藤内閣期、政社に指定されたからだが、そもそも政党化を目指していた議員等も、少なくなかったと見られる)と、政党化を志向せず、同一の系譜にあるとは言い難いほどの、議員の入れ替えと離合集散を経た支流(大雑把に言えば実業団体→中立倶楽部→実業団体→実業同志倶楽部→山下倶楽部→日吉倶楽部→中立倶楽部→中正倶楽部→甲辰倶楽部)とを分け、前者を中立派と捉えず、後者を中立派と捉えることは、これまで見てきたことから、合理的だと言って良いと思う。とは言っても、その本流の吏党系にすら、薩長閥の内閣に対して、是々非々で臨もうとする面はあった。筆者の見解が前山氏のものと異なる点は、それでも、甲辰倶楽部を第1次桂内閣寄りの勢力だと捉え、衆議院内の大勢力(立憲政友会と憲政本党)と小勢力(帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部)の対立というよりも、第1次桂内閣側と、民党の系譜(民党の本流を汲む2大政党と、新民党)との対立と捉えている点だ。甲辰倶楽部については、中立実業派から吏党系になる過程の組織だと考えている。問題は、甲辰倶楽部内の立憲政友会離党者が、第1次桂内閣に寄った勢力なのか、前山氏の指摘する通り、立憲政友会の幹部専制に不満を持って離党した議員達なのか、ということである(註2)。これは両方の面があるため判別が難しいのだが、筆者は後の所属会派を重視している。吏党系との合流へと進んだ議員達は、それが中立実業派の出身者であろうと、立憲政友会の離党者であろうと、山県-桂系、山県-桂系を基盤とする桂太郎の内閣に近かったと考えるのだ(例外と見られる議員がいないことはないが、全体としてそう捉えることを、阻むほどではないと考えている)。甲辰倶楽部が吏党系や会派自由党離脱者と合流しても、つまり大同倶楽部を結成しても、政党化されるに至らなかった大同倶楽部→中央倶楽部の運営自体は、既成政党のように幹部専制でなくても、大同倶楽部自体が山県-桂系に盲従するというのでは、事実上は幹部専制と変わらない(註3)。

甲辰倶楽部については、他にも前山氏が指摘している、注目すべき点がある(同132頁)。第21回帝国議会でのことだが、秋山を追い詰めた小河による、「商工業者の代表を選出可能にするため」の府県制中改正案の提出である。それは、府県会議員選挙において、人口1万人以上の町を、1名の議員を選出する独立選挙区とするものであったが、否決された(『帝国議会衆議院委員会議録』明治篇三一6頁)。前身の中正倶楽部よりは下がったとは言え、市部選出議員の割合が比較的高いという、中立実業派の特徴がしっかり表れているのだ。

前山氏の研究で興味深い点がもう一つある。甲辰倶楽部からの根津嘉一郎の離脱(1904年12月21日)に、根津と佐竹作太郎(同じく甲辰倶楽部)の、議員資格審査が関係していることを指摘していることだ(前山亮吉「甲辰倶楽部と日露戦時議会」131頁)。彼らは東京電燈のそれぞれ取締役と社長であった。新潟電燈監査役の白勢春三(有志会-前山氏は無所属としているが、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部によれば有志会所属)は、政府のために請負をなす法人の役員であることから、衆議院議員選挙法第13条に抵触すると見られ、議員資格剝奪(当選無効)の判決が大審院でなされた(当選無効訴訟を起こしていた、丸山嵯峨一郎前立憲政友会衆議院議員の当選となった)。そして萩野左門(当時無所属。元旧大日本協会・政務調査所派、進歩党~憲政本党、新潟進歩党~交友倶楽部)が、両者の審査を請求したのであった。前山氏は両者が、衆議院の資格審査特別委員を独占する2大政党に働きかけ、資格の認定を得たことを明らかにしている。ここで筆者が注目するのは、筆者が新民党に分類する同志倶楽部(第7、8回総選挙後)に参加し、後に、やはり筆者が新民党に分類している同志研究会系の、政交倶楽部の結成に参加する萩野が、第1次桂内閣寄りの、甲辰倶楽部の議員を追い詰めようとしていたことである。ここにも左右の対立が表れている。そして大政党の、少なくとも「結果としての多数派の横暴さ」も。何せ根津は1904年12月に憲政本党に、佐竹は1906年12月に、立憲政友会に入党するのである。

註1:奉答文の再議を主張していたのは帝国党、中正倶楽部、交友倶楽部の非新潟進歩党系等であった。前山氏は、政策、方針の一致なく、提携のために憲政本党に議長を譲ったこと、その議長の奉答文を再議すべきだという自身の主張が容れられなかったことを原因とする、1904年1月10日付防長新聞に掲載された小河源一の立憲政友会脱党理由を示している(前山亮吉「甲辰倶楽部と日露戦時議会」120~121頁-)

註2:第8章で見た通り、立憲政友会の離党者の多くは、伊藤の専制、それに従う幹部に不満を持っていたと言える。しかし前山氏が具体例として挙げている小河は、議長を憲政本党に譲り、奉答文の再議を幹部の圧力で無効にされたことを離党の理由とするものの、不再議反対が直接的な離党の原因だと言えそうだ。また自由党の土佐派や関東派はこれまで見たことから、彼らが自由党系の中心であれば、専制に特に反対しないのではないかと思われる。そうであれば、専制批判は権力闘争のための大義でしかない。

註3:そうであったからこそ、伊藤博文が抜けた立憲政友会を中心とする第1次西園寺内閣が成立した後、同内閣、立憲政友会になびく議員がいたのだと、考えることもできる。また、大同倶楽部の非幹部派には立憲政友会離党者が少なからずいたから、彼らが大同倶楽部の幹部専制に反発したと考えることもできる。立憲政友会離党者で非幹部派であった議員の多くは会派自由党出身者であると見られ。その中には大浦の指揮下に入った、つまり明確に山県系となったと見られる議員もいるが(本章(準)与党の不振・野党の2択(⑧)~大同倶楽部分裂の兆し~参照)、甲辰倶楽部を経ている、非幹部派の立憲政友会離党者について、大浦の影響下にあった議員がいたことは確認していない。