1.政権交代論

1列の関係・野党の2択・(準)与党の不振(⑤)~吏党系等の2つの選択肢、キャスティングボートを握り続ける立憲政友会~

立憲政友会(自由党系)と憲政本党(改進党系)は、建前上は連携して政権を奪う路線であったはずだし、甲辰倶楽部以外には、中立会派は存在しなかった。同志研究会の系譜(新民党)は、2大政党連携の深化を志向していた。だから衆議院は、2大政党・新民党と、帝国党・会派自由党・甲辰倶楽部に二分されていたと言える。有志会は例外だが、だからこそ双方に分裂した。帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部の3派を合わせた議席数は、定数379名中の72と、少なかった(1904年3月20日の第21回帝国議会開会当日。会期終了日には65に減っていた)。都市派、実業派とは呼べるが、立場が明確でない17名の有志会(同上。会期終了日も17)、そして無所属議員が36名(同上。会期終了日は35)あり、その中にも第1次桂内閣寄りの議員達がいたと考えられるものの、会派自由党と甲辰倶楽部がどれだけ帝国党の陣営にまとまって固定化されるのかすら、定かではなかった。どうであれ、過半数には遠く及ばず、第1次桂内閣は挙国一致の傾向が弱まる前に、2大政党の一方を味方とせざるを得ない状況であった。院内の制度改革(本章③、2大民党制・(準)与党の不振(③)参照)によって、切崩しはますます困難になっていた。そして、帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部に、仮に憲政本党を加えても、過半数に約30議席程度足りない状況であったから、第1次桂内閣は、有志会と無所属議員(合計40名余り)の多くを含む、非政友会の大部分を味方とするのでない限り、立憲政友会と組むしかなかった。そして、分裂したばかりである立憲政友会(の残部)と帝国党を除けば、各会派とも、内部がまとまっていなかった。ただでさえ無理がある非政友会連合の形成は、非常に難しい状況であった。このことを考えると、戦時下でなくなり、各党派が思い思いに動くようになる前に、議席も多い立憲政友会を味方にするべきであった。また立憲政友会(自由党系)の方が憲政本党(改進党系)よりも、薩長閥との妥協、協力の経験について勝っていた。山県系とは一度決裂し、薩長閥との協力を重視していた星亨が死に、伊藤博文も立憲政友会を離れても、自由党系と薩長閥との妥協については、議会開設当初から蓄積された経験があったのである。それに対して、憲政本党にはそのような経験が乏しく、内部もまとまっていなかった。桂総理が同党の主流派を味方に付けた場合、主流派に反発する対外強硬派も、山県-桂系に寄ろうとしていたのだから、同調していたかも知れない。しかしそれでも、両派間の対立感情は強く、また団結できたとしても、立憲政友会と比べれば議席は少なかった。政界のキャスティングボートはやはりまだ、立憲政友会が握っていたと言って良いだろう。原はこの時期にも、第1次桂内閣との距離について、憲政本党よりも近いかを気にかけており、桂も、より強硬的な憲政本党よりも、立憲政友会を大事にする姿勢を見せている(桂は事実上立憲政友会に政権を譲り、憲政本党は与党とするべきではないという考えを示す―『原敬日記』第2巻続篇262頁。1905年8月14日付―)。1907年の半ば頃の原の日記には、憲政本党と山県系の接近について、あり得ないと見つつも、気にしている記述が見られる(5月26日付―『原敬日記』第3巻62頁―、7月26日付―同80頁―)

1905年1月15日付の萬朝報は、桂総理が大政党に寄ったことで、甲辰倶楽部が動揺し、帝国党と自由党が接近したとする。これから既成政党に合流しようとする動き、「中立團体」の合同を図ろうとする動きが起こり、「中立團体」の離合集散が起こる模様であるとしている(この「中立團体」というのは、第1次桂内閣寄りの勢力を指していると言える)。確かに当時の状況では、大政党に寄るべきか、非2大政党でとりあえず合流するか、迷うところだろう。これも、第3極の2つの選択肢である(現在で言えば自民党に寄るか野党共闘か、という選択肢だが、この当時は、非大政党の方が政権寄りであったから、より複雑だ)。