1.政権交代論

離党者の性質(⑤⑥)~立憲政友会の離党者達~

自由党系、つまり立憲政友会の離党者達が結成したのは。同志研究会、交友倶楽部、そして会派自由党だ。同志研究会については明確だ。実際はもっと複雑であるとしても、最左派が離党したとして問題ない。この場合の最左派とは、薩長閥が選挙に基づかず(選挙権の拡大に関する問題は今は置いておく)、つまり非民主的に権力を握っていることに否定的で、多くが対外強硬派である。(長州閥出身の)党首による専制に反発していた議員達で、外交に関して穏健な伊藤の独裁、同様の執行部の追従に反発していたという議員も含まれる。これはかつての民党の姿勢に準ずるものである、だからこそ筆者は新民党に分類するのである。会派自由党はかつての自由党の再建を志向していた。しかし、誕生当時、また帝国議会開設当初の自由党系に戻ろうとしていたのは、むしろ同志研究会系であったと言える。会派自由党は、権力を取り戻すことに重きを置いており、薩長閥に接近するようになってからの自由党系を担ってきているか、少なくとも肯定していたと言える。次に交友倶楽部だが、同派の立憲政友会離党者は、基本的には会派自由党に移っている(例外は甲辰倶楽部の結成に参加した寺井純司、同攻会に入った富島暢夫。もちろん第9回総選挙で当選していない者は別である)。立憲政友会得離党後、どの会派にも参加せず、第9回総選挙後に甲辰倶楽部に参加している議員達もいる。以下の通りである。

石田貫之助 元自由党~立憲政友会

石塚重平  元自由党、立憲政友会、後に大同倶楽部

小河源一  元立憲政友会、後に大同倶楽部~憲政党

野尻邦基  元立憲政友会、後に大同倶楽部

澤田佐助  元立憲政友会、後に有志会、立憲政友会

横田虎彦  元立憲政友会、後に大同倶楽部

森秀次   元立憲政友会、後に大同倶楽部~憲政会

なお、政友倶楽部を経た議員は次の通り。

久保伊一郎 元立憲政友会、政友倶楽部、後に大同倶楽部~中央倶楽部

中正倶楽部を経た議員は次の通り。

鈴木総兵衛  元山下倶楽部~日吉倶楽部、立憲政友会、中正倶楽部

後に大同倶楽部~中央倶楽部

服部小十郎  元立憲政友会、中正倶楽部、後に大同倶楽部

確かに、立憲政友会の結成前から自由党系であった者もいるが、多くはそうではない、山県-桂系に切り崩されたと考えられる議員も含まれている(第8章優位政党の分裂実業派の動き野党に対する懐柔、切崩し(④)参照)。ここで挙げた議員達の多くは、野党であり、かつ伊藤が離れた立憲政友会にいるメリットを感じず、離党して様子を見ていた議員達だと想像する。

以上から、立憲政友会の離党者には志向の違いがあり、大きく3つのタイプに分けることができると言える。だが会派自由党参加者には、さらに内部に明確な差異があった。同派の分裂について確認しておく。1905年3月6日付の萬朝報は、9人が袂を分かったのは、田村を旗頭として、関東北陸の一派が、土佐派と関係が良くなかったからで、板垣を党首に新党を結成する議論が起こった際も、別に集会所を設けるほどであったとしている。また、土佐派は非政友会の目的のため、政府と結んだに過ぎず、関東北陸の一派が合同の速成を唱えたことを喜ばなかったことも、分裂の原因とする。9人とは以下の議員達である(3月2日に会派自由党を脱している。さらに8日に4名が脱して、6名となった18日に会派自由党は解散した―また所属議員の時岡又左衛門が1904年9月に死去―)。

丹尾頼馬  福井県郡部選出 元立憲政友会、後に大同倶楽部を経て復党

牧野逸馬  福井市選出   元立憲政友会、後に大同倶楽部を経て復党

藻寄鉄五郎 石川県郡部選出 元政友倶楽部、後に大同倶楽部、立憲政友会

田中喜太郎 石川県郡部選出 元立憲政友会、後に大同倶楽部~憲政会

浅野順平  石川県郡部選出 立憲改進党出身であったが憲政本党を離党して

立憲政友会に参加、後に大同倶楽部、憲政会へ

中谷宇平  石川県郡部選出 元立憲政友会、後に大同倶楽部

田村順之助 栃木県郡部選出 もともとは自由党系だが新自由党や山下倶楽部にも参加

後に大同倶楽部を経て立憲政友会に復党するも再度離党、

政友本党に参加

持田若佐  栃木県郡部選出 元立憲政友会、政友倶楽部、後に大同倶楽部

関信之介  茨城県郡部選出 元立憲政友会、政友倶楽部、後に大同倶楽部を経て復党

次に離党した4名は、駒林広運、松元剛吉、松本大吉、嶺山時善だ。最後まで残っていたのは、土佐派の林有造、山本幸彦、中沢楠弥太、楠目玄、土佐派と近かった広島県郡部選出の小田貫一と松本大吉である。この残留派のうち、林有造(第10回総選挙に立候補せず引退)と、大同倶楽部入りする松本以外が、立憲政友会に合流する。

土佐派等、自由党系を伊藤系から取り戻したいと思っていたであろう勢力にとっては、伊藤が立憲政友会を離れたことで、一定の展望が開けた。そうであれば有利な状況で、何よりプライドなどを傷つけられない形で。復党しようと考えても不思議ではない。そして立憲政友会にとっては、過半数の回復とその維持のために、しっかりとした地盤のある議員、勢力を取り込むことには、メリットがあった。これが復党の動きになったのだと考えられる。一方で関東派や北陸派は、山県-桂系と結び付いた。当時政権を担っており、総理大臣を事実上決める権限を有していた薩長閥に、寄ったのである。大政党を離党することは、リスクの大きなことであり、それを実行した後では、離党前よりも有利な条件で、あるいは少なくとも劣らない条件で戻ろうとするか(基本的には一定の時が経ち、離党時の怒りが収まったり、離党の理由となった事象があせている場合)、あるいは後にして来た大政党に対抗し得る勢力に移る、またはそのようなものをつくることになる(あるいは全て諦めるか・・・)。関東派や北陸派は後者であったわけだが、当時は議院内閣制ではなく、薩長閥という、衆議院以外ではことごとく強い勢力があったから、移る先を見出しやすかった訳である(それを見込んで、立憲政友会を離党することもできた)。新たな勢力を形成するという最も難しい道も、薩長閥側の勢力の糾合という形で、なんとか進めることができたのである。派閥間の従来の対立に加えて、このことも会派自由党分裂の要因であると言える。