1.政権交代論

(準)与党の不振(⑥⑦)~大同倶楽部の結成と吏党系の変化~

1905年12月2日付の読売新聞によれば、同攻会を除く少数党合同で委員選を争おうと、帝国党と旧有志会が斡旋する動きをしていた。当時の帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部、有志会、無所属の全議員を合わせても、衆議院の過半数には遠く及ばない。合計130議席にも届かないし(180以上で過半数となる)、有志会と無所属には、同攻会(当時は解散していた。同志研究会系)に近い議員もいた。しかし帝国党、会派自由党、甲辰倶楽部の主流派が合流を決めれば、憲政本党を上回る議席数となる可能性はあった。憲政本党の大石正巳は強がってはいたが、このことを警戒したに違いない(1905年12月14日付の日記に少数党の連合運動について「其勢力は敢て恐るゝに足らずと雖も、陰謀離間を廻らし官僚政府の手足となりて國民的正黨を傷害し、憲政の發達を妨害するの憂ひなきに非ず」とある―『大石正巳日記』41頁―)。吏党系が第2会派であり、一時的には第1会派にまでなった時期の、中央交渉部が復活するようなものだ。第1回総選挙後に結成された吏党系の大成会は、中立派の議員を含むもので、そこから、実際には野党的(民党的)であった議員達、野党的(民党的)になっていく中立派の議員達が離れ、残部が第2回総選挙後、中央交渉部になった(選挙干渉が行われたこともあり、議席はむしろ増えた)。そしてそれも、より明確な薩長閥支持派として歩む国民協会(帝国党の前身)や、実業派の議員達に分裂した。中立の大義を捨てて、薩長閥支持を明確にすること(その先に政党化の是非の問題はあった)に、否定的な勢力が、国民協会に参加しなかったのだと考えられる(大成会については第1章、中央交渉部については第2章参照)。大同倶楽部の結成には、その分裂前の中央交渉部が、再興されたという面があると、筆者は捉えている。大同倶楽部には自由党系の離党者が加わっているが、中央交渉部にも、自由党系(立憲自由党)の離党者が含まれていた。双方に含まれるのが井上角五郎なのである。そしてその井上は、国民協会には加わらず、一度自由党系に戻っていた。大同倶楽部はそのような経験がある中で、誕生したのである。このような見方をした時に思い出されるのは、中央交渉部に、政党化の是非を巡って分裂したという面があることである(第2章(準)与党の不振(④)参照)。大同倶楽部は、政党ではなく、政党化されることもなかった。つまり、解散した帝国党の系譜は、政党ではなくなった(ただし、帝国党の中核となっていた熊本国権党は解散しておらず、地方では帝国党も名乗られていたようだ)。しかし帝国党の系譜は、大同倶楽部の政党化を志向していたと考えられる(何より帝国党自体が、事実上政党でありながら「~党」という名称を避けた立憲政友会とは違い、「~党」という名を持つ政党であった)。政党化という、合意の難しい課題が先送りされたということになるが、3歩前進、1歩後退といったところではないだろうか。中立実業派にとって、政党化はとてもハードルが高かった。しかし、将来の政党化が当時、完全に否定されたわけではないだろう。合流した状態で、一定の期間を経ることが、政党化を目指す勢力にとって、重要であったのだと考えられる。

山県-桂系を中心とする内閣の終焉は、当然ながら、吏党系、第1次桂内閣寄りの勢力には不利に働く。山県-桂系の支持派となって久しく、容易に立場を変えられない吏党系の場合は、特にそうであった。政界の中心的な勢力であった薩長閥が(中央ではない-第6章1列の関係(⑦⑧⑪⑫⑬)参照-)、総理大臣を事実上選定するという権力を、すぐに失うことは考えられなかった。それでも、山県-桂系の影響力が低下するのかどうか、不透明ではあった。だから衆議院における第1次桂内閣寄りの勢力は、変化に備える必要があった。このことが、衆議院で議会運営から排除されようとしていたことと合わさり、政権交代直前の合流、つまり大同倶楽部の結成を実現させた。政権の交代は、山県-桂系の、桂が実現させたことではあったが、それは立憲政友会に譲歩せざるを得なかったためであり、同党の原と、桂が決めたことであったとも言える。そう言える状況であったことが、イコール、薩長閥(山県-桂系)の影響力が多少なりとも低下していた、ということである。同時に、自由党系が伊藤博文を担いでいなくても、薩長閥と政権のやり取りができるまでに強くなっていた、ということでもある。

大同倶楽部に参加した井上角五郎(後藤象二郎系で、立憲政友会を除名され、中立倶楽部に参加していた)は、同派を実業家を基礎とする団体と捉えている(本章1党優位の傾向(⑥他)参照)。吏党系にも、大岡育三、熊本国権党など、実業重視の立場は見られた(註)。しかしここまで見てきたように、吏党系が、地主的利害から踏み出していたとは言えなかった。それが中立実業派などと合流し、変化を見せたということであろうか。筆者はそうは捉えていないが(性質上も、結成の背景からも、大同倶楽部は吏党系の拡大だと言えるから、筆者は同派を吏党系だと捉えている)、帝国党出身者も、会派自由党出身者も多数派ではない大同倶楽部が結成されたことで、それが変化する可能性は確かにあった。しかしそれは、容易に実現するものではなかった。選挙制度が変わり、工業化も進んだとはいえ、実業家層(商工業者)の利害を代表する勢力だけで多数派になることは、まだ難しかった。そのような状況の中、吏党系の変化は、従来の吏党系、自由党系の離党者(その中にもかつての自由党の出身であったり、その遺伝子を受け継ぐ者と、そうではない者がいた)、中立実業派の寄せ集めであった大同倶楽部内の、力関係によってもたらされ得るものであった。大同倶楽部結成当日、12月23日付の萬朝報は、同派を統一、節制なき群集であり、政見も性格も個々に分かれているとした。これは同派の構成、その後の同派の混乱を見れば当たっていると言える。その中でどのように変化するのか、あるいは、かつての吏党の性格を、ほぼそのまま受け継ぐ勢力となるのか、ということが問題であった。

23日付の萬朝報はまた、北陸組、信州組等が、大同倶楽部の中堅を自任しているとする。12月24日付の同紙はさらに、同派の北信派が渡辺国武を総理にしようとしており、また、他に大浦兼武、清浦奎吾を総理にしようとする者があって、これらに反発する者もあるとしている(総理というの大同倶楽部のトップを指すが、政党化してその党首に、という一部の希望もあったのだろう)。内閣総辞職後は、比較的人望のある曽祢荒助を推すに至るだろうともしている。ここで名の上がった者達は、長州、薩摩、その他と、出身こそ様々だが、薩長閥政府側の有力者達であった。つまり、大同倶楽部に参加した勢力は様々で、担ごうとしていた人物は異なっていても、皆、薩長閥系の有力者を担ぎ、自らの勢力を強化しようとしていたということが言える(そのような構想を持っていなかった議員達も、薩長閥以外の有力者を担ごうとはしていなかったようだ―会派自由党の土佐派は板垣を指導者にしようとしたが、他派の支持すら得られず、大同倶楽部にも参加しなかった(会派自由党結成前は、彼らが渡辺を担ぐ可能性もあったが-第8章優位政党の分裂(④、補足)第3極(⑤~⑦、補足)参照―、板垣が党首になるか、自由党系の出身でない渡辺を担ぐかを、結局先送りにしたのだと言える)。大同倶楽部結成前、12月19日付の読売新聞は、佐々友房、福地源一郎、石塚重平、井上角五郎を「各派合同團体の領袖株」としている。帝国党出身の佐々と、立憲政友会出身の石塚、井上には、政党に所属した経験があり、福地は、帝国議会の開設より前だが、立憲帝政党を結成していた。短期で消滅したが、自由党と立憲改進党に対抗しようとしていたのである。当然といえば当然だが、やはり中心となるのは、政党経験者であったわけである。組織力の面でも、帝国党と、土佐派等を除く会派自由党という、小規模な勢力しか基盤とはなり得ず、立憲政友会にはもちろん、結成時の議席数では約10議席まで迫った、憲政本党にもはるかに及ばなかった。とは言え、参加していないとした議員達(本章補足~吏党系の拡大、大同倶楽部結成の経緯~参照)が除かれた、第22回帝国議会開会時(1905年12月28日)においてもなお80議席はあり、同日の憲政本党の議席数97に、そう見劣りはしない規模であったこともまた、確かだ。80という数は、過半数の勢力を形成する土台となるには、小さすぎた。しかし立憲政友会が過半数を50近く下回っていた当時、キャスティングボートをしっかりと握ることのできる規模であった(憲政本党と大同倶楽部を合わせても過半数に10議席あまり届かなかったが、単独で握れると言ってよい状況であった。無所属議員約20名、同志研究会約35名の大部分が、立憲政友会の側につくとは考えにくかったからだ)。もちろんそれは、まとまりを維持できればの話であり、それこそが問題であった。参加を承諾していないとした議員が出たことは、大同倶楽部の結成が、背伸びをしたものであったことを物語っている。

1905年12月26日付の萬朝報は、常任委員選挙について、大同倶楽部が立憲政友会に交渉を試みたという説があるとしている。12月17日付の原敬の日記には、彼が憲政本党と研究会が気脈を通じているのかということを桂に質した際、桂が否定しつつ、衆議院の無所属の連合は、立憲政友会と同一歩調をとるためだとしたことが記されている(『原敬日記』第2巻続篇296頁)。甲辰倶楽部が無所属議員による会派であったこと、会派自由党が解散していたことを合わせて考えれば、桂が大同倶楽部結成の動きについて述べたのだと考えられるが、同派結成の構想は本来、2大政党の連携に対抗するためのものであったはずだ。立憲政友会が憲政本党を切ることにしたからと言って、合流の動きが実を結ぶ頃には、立憲政友会に協力するための合流になっていたと捉えることには、無理がある。吏党系は久しぶりに拡大したわけだが、それでも桂は立憲政友会にこびるようなことを言った。「ニコポン」で知られる八方美人の桂のこととは言え、ここに吏党系の限界を見ないわけにはいかない。憲政本党に代わって立憲政友会の連携相手になろうとしたことも「限界」だし(衆議院だけを見れば、決定権が立憲政友会にある)、それが桂の意向にそったものであったことも、もちろん「限界」だ(山県-桂系は吏党系よりも自由党系を重要視していた)。甲辰倶楽部の議員には、政界の中心と中央という、2大勢力が協力し、自派がそれに与することは、最も歓迎すべきことであったはずだ。甲辰倶楽部の議員としたが、吏党系にとってもそうであったかもしれない。立憲政友会離党者にとっても、面目を失わずに、ある意味復権の機会を得たことになる。このことも、大同倶楽部の限界だと、筆者は考える。小勢力か寄せ集めか、どちらであっても、自立にはほど遠かったということだ。

註:大岡については、米谷尚子「現行条約励行をめぐる国民協会の実業派と国権派 : 初期議会の対外硬派に関する一考察」。熊本国権党については、佐々博雄「熊本国権党系の実業振興策と対外活動―地域利益との関連を中心として―」。