1.政権交代論

1列の関係(⑦)~長い「桂園時代」~

桂園時代とは、薩長閥(山県-桂系)と自由党系(立憲政友会)とが連携していた時代、というわけではない、双方に、改進党系(憲政本党)を加えた3大勢力(憲政本党を半分程度と見て2.5大勢力、あるいは2大勢力プラスアルファとした方が正確だが)がライバル的な関係にあり(薩長閥が衆議院では弱いため、自由党系と改進党系は総選挙、衆議院内でもライバル関係になりやすい)、政権を事実上決める権限を持つ薩長閥と、制限選挙ではあったものの、国民が議員を選ぶ下院(衆議院)の、最大政党(過半数を上回ることも)である立憲政友会(自由党系)が、お互いに拒否権を持ち、政権の中心でもあろうとする中で、駆け引きをして、仮に妥協していたに過ぎない。だから桂園体制は、桂太郎と原敬の関係に拠っていたという面は大きくても、生まれるべくして生まれたものだと言える。実際に、山県-桂系と自由党系が交互に政権を担った期間は、桂園時代と呼ぶことがふさわしくないほど、長い。第2次山県内閣、第4次伊藤内閣(立憲政友会中心)、第1次桂内閣、第1次西園寺内閣(立憲政友会中心)、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣(立憲政友会中心)、第3次桂内閣がそうだし、次の第1次山本内閣(立憲政友会が与党第1党)、第2次大隈内閣(立憲同志会中心の内閣だが、山県系の影響力を逃れようとしてつぶされた)にもそのような面が多少あり、その次が山県系中心の寺内内閣、その次が立憲政友会の原内閣と高橋内閣である。桂と西園寺が交互に首相に就いた時代に、それが最も計画的であり、他はむしろ結果的にそうなっただけだという面はある。しかし、程度の問題に過ぎないと筆者は考える。「結果的に」それが最も無難であったということだ。「桂園時代」は、山県-桂系が衆議院の優位政党と結びつくことで、大日本国憲法の多元的(権限を持つも行使しない天皇を別とすれば、分権的)な性格のデメリット(拒否権の行使による政治の停滞)を解消しようとするものであった。各機関に影響力を持つ元老でも、衆議院は思い通りにならなかったのだから、それさえ解決すれば、体制は強固になる(貴族院も元老に盲従していたわけではないが、コントロールは比較的容易であった)。ただしそれは、自由党系が、薩長閥の支配体制の一部となることに満足すれば、の話である(自由党系に対抗する勢力が、衆議院の過半数に届くというのは非常に難しく、少なくとも長い時間を要したと考えられる)。もちろん立憲政友会(自由党系)は、それでは満足しない勢力であった。衆議院における力の保持(―準―与党としてとりあえず有利に選挙を戦うこと)が第1段階、薩長閥と交互にでも総理大臣のポストを得る、つまり自党中心の政権が定期的にできることが第2段階であれば、薩長閥の影響力を小さくして、真の単独内閣と呼べるものをつくる第3段階、その長期化によって政党内閣を定着させることが第4段階があるはずであった(良心的であるなら、その次か前に、政権交代のある政党内閣の定着が目標であったはずだ)。なお第一段階は、結局薩長閥が2大民党(自由党系と改進党系)を天秤にかける状態に、結果的にはなったことから、断念されたのだと言える(第4章参照)。選挙が与党に有利だと言う状態は、有権者にも責任があるが、議会開設当初は、野党であっても自由党系が勝っていたのであり、またそもそも、政党、選挙の在り方が発展するには時間がかかるものである。