1.政権交代論

連結器(⑦)~やはり失敗に終わる「連結」、そしてやはり接近する改進党系と新民党~

第1次桂内閣と立憲政友会の裏取引は、左の極が重視する2大政党の連携を、終わらせるものであった。新民党は対応を迫られることとなったのだ。すでに第1次桂内閣の総辞職が決まっていた、1905年12月22日付の萬朝報は、同攻会の協議会が開かれたことを報じ、新内閣が山県系の人物を入れる場合、同派は援助しない意向であることを伝えている。これは新民党としては当然である。次の第1次西園寺内閣は後述する通り、政党内閣という面を持つ反面、第1次桂内閣の政策を受け継ぎ、山県-桂系にも配慮するものであったから、新民党は反立憲政友会とならざるを得なくなる。自由党系が、改進党系から薩長閥(山県-桂系)へと組む相手を替えたことで、大同倶楽部を結成する吏党系等から、改進党系と新民党に、劣勢な勢力が代わったのだ。1列の関係は、連携相手を見出しにくくなる、あるいは見出せなくなるという点で、「列」に並んでいないと言える新民党にも、影響を与えるのである。本章1列の関係(⑤)~日清戦争後と日露戦争後~において、新民党(同士研究会系)が、孤立しつつも際立ったとした。第1次西園寺内閣の成立によって、2大政党(2大民党)の連結器としては、新民党は確かに挫折をした(第2回総選挙後、日清戦争後にも挫折し、その後憲政党の結成で成功したかに見えたが失敗に終わり、第1次桂内閣の成立と憲政本党軽視により、成功の可能性がある程度高くなっていた)。しかし、与党となった立憲政友会が憲政本党を切ったことで、新民党の孤立については、解消される可能性が出てきた。政党中心の内閣の成立については評価するも、立憲政友会に対して不信感を持っているという点で、改進党系(憲政本党)と新民党(政交倶楽部)は当時、一致していたと考えられるからだ。2大政党の連携→合流が失敗するたびに、改進党系と新民党は合流していたわけだが(進歩党の結成と、憲政本党の結成―こちらは事実上-第6章③、第3極(②③⑦)で見たように、中立派、新民党出身者は憲政党大分裂の際、基本的には憲政本党に参加した)、2大政党の合流による薩長閥の打倒が、ますます期待できないものとなる中、改進党系と新民党がさらに接近する可能性は、ポーツマス条約に対する姿勢の差異を超えて、いや条約の問題が過去のものとなったことで、高まったのだと言える。同志研究会系と憲政本党の主流派は、衆議院において左寄りであるという点で近かったし、同志研究会系と憲政本党の反主流派は、対外強硬派であることについては、共通していた。存在感を増したからと言って、同志研究会系(政交倶楽部)が政党を結成し、躍進するということは結局起こらないものの、その後の再編において、その性格は、刷新後の第2党(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)に反映される(第12章以降で見る)。