1.政権交代論

新民党・野党の2択(⑦)~同志研究会系の姿勢~

改進党系(憲政本党)に比べれば、新民党(同志研究会系)は明確であった。当時後者の同攻会に属していた河野広中の伝記、『河野磐州傳』には、第1次西園寺内閣が成立する前、河野が立憲政友会の松田正久と会い、西園寺が総理大臣になるよう、「『西侯を蹶起せしむべきである』と勸めた」こと、政党内閣であることから、第1次西園寺内閣の成立に好意を表したものの、その後の積極財政を見て、反対せざるを得なくなったということが記されている(710~711頁。1906年3月25日付の大国民においては、政交倶楽部の大竹貫一が、西園寺内閣を「桂内閣の再生」だと批判している)。『河野磐州傳』にはまた、第1次西園寺内閣が実際には、「桂を後見として、その指導を俟ちつヽある内閣であって、眞個輿論を代表する政黨内閣ではなかつた」と、河野の期待に背く内閣であったことが記されている(713頁)。政党内閣(議院内閣制)に近づいていくことは評価しつつ、その不徹底には批判的であり、増税につながる積極財政には反対という、民党の伝統を引き継いでいる(以前、薩長閥中心の内閣に民党の指導者が入閣した時には、政党排除の内閣から政党内閣への一段階として、評価することができた)。だがそれはあくまでも、政権獲得を目指さない(註)勢力だから採れる姿勢であった。薩長閥支配に対抗する勢力であることは間違いなくても(それも所属議員が全員そうであったかは分からないのだが)、総選挙の結果に基づく政党中心の内閣を定着させるために、有効な動きをすることはできなかった。なお、憲政本党も、この新民党と同じ路線を採れば、同様であったわけである。総選挙で双方合わせて過半数を取るようなことがあれば別かも知れないが、自由党系抜きに、野党としてそのような勝ち方をするのは、事実上不可能であったと言える(選挙制度の影響もあるが、そもそも議席の大きな変動は、日本ではかなり珍しい。あり得るとすれば与党になることであった・・・)。だから憲政本党が新民党と同じ姿勢を採るのは、新民党がそうするよりも難しかったのである。

註:同志研究会系は、単独での政権獲得を目指せる規模ではなかった。選挙権の拡大が進めば可能性があったと、言えなくはないが、普通選挙になれば社会民主主義政党も躍進する可能性が高かった。そうであれば同志研究会系は、満足できる政党内閣が出来た時に、連立を組むか、与党、または次の政権を目指す最大野党に合流するしかなかった。