1.政権交代論

(準)与党の不振(⑦)~難しい立場の吏党系~

第1次桂内閣を支持していた勢力が結集した大同倶楽部は、第1次西園寺内閣成立の経緯から、それまで対立していた立憲政友会を中心とする、第1次西園寺内閣に好意的であった。立憲政友会と大同倶楽部が、第1次桂内閣の終盤と立場を入れ替えたような面もある。今度は大同倶楽部が、政権を支持するかどうか、選ぶ立場になったのだ。しかしそれは主体的なものではなく、山県-桂系の姿勢に規定されるものであった。また違うのは、立憲政友会が首相や閣僚を出している点である。それに対して大同倶楽部は、薩長閥内閣であっても政友会内閣であっても、準与党だ。山県-桂系と政友会内閣が対立関係にあった第4次伊藤内閣の時よりも、吏党系は政権に近い立場であった。吏党系は薩長閥の付属物なのだから、間接的には桂園体制の付属物でもある。しかし立憲政友会と結び付いていたわけではなかった。主体的に動けない準与党であるまま、政権との距離が広がったということは、薩長閥(山県系)・貴族院と明確に対立する政友会内閣(第4次伊藤内閣)と対立するよりも、ある意味難しい立場であった。

吏党系の立場が難しいことは、薩長閥以外の大勢力にも寄ろうとする動きとして、しばしば表れる。1906年1月10日付の読売新聞は、石田貫之助の一派が立憲政友会と大同倶楽部の合同を唱えているとしている(石田の一派が何かは分からない)、その大同倶楽部の旧甲辰倶楽部系には、第1次西園寺内閣に否定的な議員がいたようである。2月5日付の萬朝報は、大同倶楽部において旧甲辰倶楽部の8、9名が、税法調査会の組織に異議を挟み、政府に責任を負わせるべきだとしたことを報じている。